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わたしはげんき?

「文章を、小説を、まあ何らかのものを書くというのは相手に何かを渡すこととよく似ている」というようなことを旧友が何らかの場所に書いておりまして、私はその文章をどのように受け取ったのだろうか、友人はその文章を私に、または別の友人たちにどのように渡したのだろうか。
 私がその文章(前述した友人の文章)をはじめて受け取ったのは、かれこれ、うーむ、。8年前、いや、そんなに経っていないかもしれない。しかし、当時の体力などを思い返すと、8年ほど前なのかもしれない。とにかく、逆算して考えてみると、23,4歳の頃のことであったと思う。
 私は当時芸術(主に文学について)を学んでいた。授業はとても面白く、本の虫になっていた。なかでも私たちのクラスは文芸を学ぶことが主であり、自らが書いた小説やエッセイ、短歌、詩などを発表する場が多分に設けられていた。
 そんな授業のうちのどれかで、例の旧友があの文章を発表したのだった。私は脳天に雷が落ちたような気持ちがした。当時の驚き、衝撃、喜びを今も鮮明に思い出すことができる。
 しかしこれだと何が言いたいのかわからない方がほとんどだろうから、もう少し、友人の書いた文を詳しく紹介したいと思う。

『たとえばものを相手に渡すとき、どんな方法で渡すだろうか?渡す側は、渡し方を選択することができる。
 そっと投げて渡すのか?相手が受け取れるか/受け取れないかを考えずドッジボールのようにぶん投げるのか?両手で包むように持ちながら渡すのか?床に置いて相手に拾わせるのか?
 そういった"渡し方"を選ぶことが文章を書くことであると思う。どの方法でも相手に文章は渡る。しかし、わたしは、できる限り優しく手渡しで渡したい』

と、こんなような文章であったように記憶している。だいぶ昔のことなので本当は全く違う文章かもしれないが、私の衝撃と喜びが「そうだそうだ、そんな感じだ」と言っているので、自分を信じてみたいと思う。こんな感じの、文章だ。まちがいなく。
 私は以前から何度も「物語は読み手がいてこそ完成する」と発言してきた。SNSにも書いたことがあるし、誰かに口頭で伝えたこともある。しかしその時点では、"渡し方"までは意識していなかった。「私はこれを書いた、あなたはどうする?」というような、そんな感性のさせ方をしていたと思う。
 その無責任さが、わざとあけておいた物語の空間を埋めると信じていたし、今も信じている。しかし、渡し方を変えてみるとどうなるのだろう。
 私はできる限り優しくありたいと思うし、優しくなりたいと常々思っている。それで、「ああ、あのひと、名前は忘れたけど、あの小説書いてたひと、優しかったなあ」と、だんだん私自身の輪郭が読者や他者のなかで薄くなっていき、いずれ思い出されることがなくなれば、寂しいけれど、私はそれで良い。優しさなんて忘れられていいのだ。人に優しくされたら、ずっとずっと覚えていたいけど。
 
 その後、また新たな衝撃に出会った。彼は漫画家で、優しくて楽しいまんがを描いているとわたしは彼のまんがを読んで思っている(本人がどんな気持ちで描いているかは、本人にしか分からないだろう)。そして、その人が悩んだときに開くノートがあるという。
 そこには「好きなひとにプレゼントをするように描く」と描いてあったらしい。
 これはさっきまでこの文章の主人公であった私の友人の考え方につながっている部分があると私は考えている。
 彼は、もう渡し方を決めた上で物語を紡いでいるのだ。好きなひとにプレゼントをするように。それはドッジボールのように投げるわけでも、床を滑らせて雑に届けるわけでもない。

 しかし、ひとによって好きなひとにプレゼントを渡す方法は異なるだろう。ドッジボールが正解の場合もあるかもしれない。毎回違う方法でサプライズのように渡すのが正解の場合もあるかもしれない。
 ここからは私個人の憶測だが、漫画家の彼の言う「好きなひとにプレゼントをするように」というのは、何を渡したら喜んでくれるか・何を渡したら笑顔が見られるかだけを考え、常にそのひとの顔を浮かべながらプレゼントを選び、渡す際はプレゼント自体にも衝撃を与えないように優しく持ち、相手の両手が荷物などで塞がっていないか確認し(塞がっていてはプレゼントを受け取ることができないし、受け取ってくれたとしても落としてしまう可能性があるからね。もし塞がっているならその荷物を少しでも持ってあげてもいいかもしれない)、というか荷物をたくさん持っているひとにさらに何かを渡すというのはプレゼントではなくエゴの押し付けだ、そして、そのひとたったひとりのためだけの特別を手渡すということだと思っている。
 そして、私が何かを好きなひとに渡すとき、そんなふうでありたいと思う。

 いまはまあこういうご時世なので置き配がメインになりつつある。私もネットで何かを買った際には必ずと言っていいほど置き配でお願いしている。
 しかし、それも渡し方のひとつだとも思っている。私は先日大量の(ほんとに大量の!)食料品などをインターネットのブラザーズから送っていただいた。とても助かりました。その節はほんとうにどうもありがとう。
 ネットブラザーズからの贈り物は冷凍のもの以外は置き配だったと記憶しているが、玄関に積まれたものすごい量のAmazonの段ボールを見て、笑ってしまったと同時に泣きそうになるほど嬉しかったものだ。
 そして、対面で受け取らない配達方法のため、一見すると事務的というか機械的というか、うまく言えないが、便利だがあたたかみがないように思えるが、一切そんなことはなく、ただただ優しさが積まれたものだった。なかにはメッセージ入りのものもあり、贈ってくれた相手から直接受け取ったような気さえした。
 匿名で送ってくれたネットブラザーも何人かいて、改めてお礼を言いたいと思う。ほんとうにありがとう。顔も名前も分からないけど、きちんと受けとりました。そして美味しくいただいています。

 今回久しぶりに長文を書いたのは、Amazonからいろいろなものを送ってくださったネットブラザーズへのお礼と、ほんとうにたくさんのものが届いて、それが改めて誰かに何かを贈ることについて考えるキッカケになったからです。
 私は現在、躁鬱だか何だか知らねえがメチャクチャにハッピーになったりゲキウツいずれ自殺!になったりするビョーキになってしまったようで、まあ脳の何らかの分泌物がおかしくなってるんだろうけど、みなさんのおかげで何とかやってます。自分に合った薬をいろいろ試したりしてね。いま飲んでる薬が合ってるのかどうかは、わからん。蕁麻疹は落ち着いてきて、一時期は1本2万円する注射を毎月の打たなきゃ無理か?!とまでなってたけど、それは必要なさそうです。あの蕁麻疹、なんだったんだろな。入院生活は寂しくて全身が痒くて発狂しそうだったけど、同じ病室のばあさんたちが孫のように可愛がってくれてすごく楽しく過ごすことができた。最近退院したということも知れた。元気に長生きしてほしい。

 話が逸れました。わたしは元気です?

 元気です!と言えるようになるまでたぶんかなりかかるが気長にやってくしかない。

 改めて、この場を借りてお礼させてください。たくさんの支援物資をありがとう。今どハッピーな感じなので、頭もかなりスッキリしていて、まあ躁状態なだけだろうけど、クラウドファンディング?クラウドファウンディング?の本の作業もできそうなので、病気を活かして早めに送れるようがんばります!それがいちばんのお礼になると思うので。

ありがとうございました。

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