見出し画像

薄色半色 うすいろはしたいろ

 いぬは神妙な面持ちでお母さんの言う事にみみを傾けていた。理屈に通らない小言から発展して「居候の癖に偉そうだ」とか「何もしてない癖に太って憎たらしい」とか「毛が汚い」とか嫌な事をたくさん言っていた。最後にいつもの決め台詞「言う事を聞けないなら出ていけ」があって、嵐は去った。



 この嫌な人間一号は、わたしだけに人格を蹂躙する言葉をずけずけと飛ばしているのかと思ったらそうではなかった。いぬちゃんにもそうだし、お父さんにもそうだ。お父さんとお母さんの喧嘩を見るたびに、もう別れちゃえばいいのにっていつも思ってる。こんな無神経な人間から生まれたことが恥ずかしくって体が痒くなってきた。

 酷かったのが友達のアキちゃんのことで、ちょっとした意趣返しのつもりもあったけれど、やっぱり親なのでお母さんに冷や冷やながらも相談してみた。アキちゃんの悩みは身も蓋もなくこずかいが少ないってやつで、当時はひどーいくらいにしか受け止められなかったけれど今考えると相当むごい。わたしは真剣に、それをどう思うかって、お母さんが何か言ってくれればアキちゃんの慰めになるかなって聞いてみた。するとお母さんはいつも無気力な癖にアキちゃんのお母さんの悪口だと思って大盛り上がり。ついでに彼女自身まで巻き込んで「だから小汚いんだ~」「大人になっても友達が少ないんだ~」なんて言い出した。

 お母さんにも人並みの感受性があるんだろうな。私の顔が引きつってるのを見て慌てて話題を変えようとした、けれど何のつもりか「で、お前のこずかいをあげろっての」と悪口で乗ってきた汚い口調で言いだした。お母さん、ごめんなさいが必ず言えない。この人が謝ったところを見たことが無い。でも、わたしの事ならすぐに謝る。わたしが悪くなくても謝るんだ。わたしを見て一瞬、お母さんが「しまった!」という顔をしたのをわたしは知っている。この世に専業主婦って身分が無かったら、お前なんてどっかで野垂れ死んでるんだからな。お母さんにも耳が付いてる。地獄耳だけだけど。きっと意趣返しがばれたんだろうな。

 もったいないから急いでご飯を食べた。お母さんの言葉を全部無視して、とにかく急いで食べた。食べずらいなと思ったら鼻水でお米が喉を通らないし、なんでも飲み込むのに一苦労。一生懸命で気付かなったけれど、わたしは泣いていた。ずっと俯いていたし、怖くて見上げられなかったから確かなことは言えないけれど、お母さんも多分泣いていた。その涙はよく知っていて、気持ち悪かった。

 我が家はよくあるメゾネットタイプのアパートの二階だ。下の階で鍵の音がして誰かが帰ってきた。足音が聞こえなかったらお父さんだ、いつも死んだふりをする。ただいまと聞こえたらいぬちゃんだ。

  ただいまと聞こえて、いぬちゃんだった。いぬちゃんはご機嫌でお土産なんかも持って帰ってきていた。ここ3日間はいぬの集会があって福岡に行っていたらしい。前にいぬの集会を見たことがあるが、いぬたちは本当に集まるだけで、輪になって揺れたり音楽をかけて踊ったりするだけだ。思ってる集会はなんか会議的な事をするのかなって感じだったけれど、全くの見当違いだった。わたしはちょうど食べ終わって、部屋に帰るつもりだった。いぬのみみをそっと撫でて部屋に引きこもった。

「めんたいこだよ」

「見てみ」

 これはわたしの想像なんだけど、あの時いぬちゃんはお土産の箱を開けてビニールをペロンととってお母さんに見せたんだと思う。それからしばらく沈黙が続いて、いぬちゃんはわたしの部屋にやってきた。いぬちゃんはでっかくなってわたしを背中に乗せた。階段の手すりの隙間からお母さんはわたしを見て手を振ってくれていて、それに気付いたころにはもう外だ。

 いぬちゃんとの散歩は楽しい。とりあえず少し遠くのファミマでファミチキと肉まんを買った。急にいぬちゃんの明太子が保冷バッグに入っているでもなく、ナイロン袋に入れられていただけのが気になったが、寒いから大丈夫なんだっていぬに申し訳なくなった。もう暗いのもあって恥も何もあったものでなく、四肢でいぬちゃんの背中にしがみついた。同じ中学のヤンキーがダイレックスの前でたむろしているのを、じーっと見た。キリのいいところのいつもの神社に着いたころ、肉まんたちは隅っこから冷えていた。

 拝殿の階段でいぬちゃんは肉まんとファミチキを一口で食べた。わたしも冷め切らない内に急いで食べた。でっかいいぬちゃんはわたしを股の内側に座らせて寒くないようにしてくれた。いぬちゃんはわたしの手を握って膝に置いた。何となくいぬが空を見た気がしたからわたしも空を見た。星はない、でも紫の空と雲、青空の名残やら、とにかくその空の全てが複雑できれいで果てしなくってうれしかった。自然と口が笑っていぬちゃんと同じ表情になって、「いぬちゃん」と呼ぼうとすると、いぬはつむじ風を見ていたのだった。あほが。いぬちゃんのお腹から、お母さんのにおいがした。

 落ち葉たちは風にくるくる巻かれて、飛べてるんだけど飛びきれない。いぬちゃんはそんな冬のつむじ風を指さして「飛んでる」と言った。空が月とそのほかの星たちの番になるまでのもうしばらく、わたしはいぬちゃんと空と風を見ていた。お母さんとお父さんにも肉まんとファミチキを買って帰ることになったので、来た時のファミマにまた寄った。いぬちゃんのちっちゃいがま口から500円玉が2枚出てきた。

 家に着くとお父さんはまだおらず、なんだかほっとした。お母さんはやったと言って肉まんとファミチキを開けて食べはじめた。からしが入って無いから、あそこのファミマの店員は~とまた何か言い出した。

 お父さんが帰ってくると、お母さんはウインナーを焼いていぬちゃんとわたしを呼び出した。帰ってきたばかりなのに一息つく間もなく風呂に入りご飯を食べさせられるお父さん。いつかぶりに家族そろってテーブルについた。

その日の寝る前、キリのいいところの神社の石畳が頭に張り付いていて、そのことを思いだしているとよく眠れた。

 あの沈黙の間、いぬちゃんはきっとお母さんを抱きしめて抱きしめられていたんだと思う。いぬちゃんと散歩に行く直前、ささやかに見送っていお母さんの顔はむくんでこそいたものの、わたしを許していた。許される覚えもないが。ちょっと手も振って何か照れていた。本当はいぬちゃんじゃなくて、わたしにそうして欲しかったんだろうか。それとももっと本当のことを言うとお父さんにされたかったんだろうか。憎しみの記憶のはずが、なんかこう、不完全燃焼だ。



 お母さんはわたしにいぬが臭いから干すように言ってきた。この間、アキちゃんと見た映画を思い出す。タイトルからして平和な映画なんだろうなと思っていたのだけれど、アメリカの奴隷制をテーマにしたもので見るにしんどかった。その中で奴隷が奴隷を鞭で打つシーンがあるのだけれど、それと重なったというわけだ。

 とりあえずお母さんの命令通りにいぬちゃんを天日干しにした。別に臭くないんだけど。

この記事が参加している募集

応援していただけたらさいわいです。頂いたサポートは交通費や食費、勉強代になります。