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個性?そんなもん糞食らえでございます。

■“世界に一つだけの花”が気持ち悪いんです。

誰もが一度は聞いたことがあるだろう名曲『世界に一つだけの花』。
私は当時からこの曲が嫌で嫌でたまらない。

ただ、やはりこの曲や歌詞、アイドルグループを否定するものではない。
私が気持ち悪いと言っているのは、この曲を過剰にとらえ、
まるで宗教の経典のように信じて疑わないバカ、失敬、
少し“洗脳されやすい人”のことである。

そういう一般大衆はこの曲から悪しき「個性」という言葉を学んだのだ。

ちなみに、私は槇原氏が歌っているバージョンの方が好きである。

■過剰すぎる個性への姿勢

・個性とは何か
そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。その人の在り様。
読んで字の如く個の性質である。

果たして“個の性質”なるものは尊重されているだろうか。

『みんなちがってみんないい』という言葉を履き違え、
『ナンバーワンよりオンリーワン』と叫び、
“個性はすばらしい”とやたら賞賛する風潮が蔓延している。

『みんなちがってみんないい』というのは金子みすゞさんの童謡であるが、
個性賞賛派の一般大衆はもしかしたら『みんなちがってみんないい』というタイトルだと思っていて、この一節しか知らないのかもしれない。

『みんなちがってみんないい』は金子みすゞさんの童謡『私と小鳥と鈴と』の一節である。
この詩を読むとおそらく一般大衆が言う『みんなちがってみんないい』という“個性”とはほど遠いことがわかるのではないだろうか。

『私と小鳥と鈴と』 金子みすゞ

私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

(金子みすゞ/私と小鳥と鈴と)

■個性のはじまり

・ヤンキー、非行、そしてゆとりへ
個性に対しての過剰な姿勢のはじまりはやはりゆとり教育があるだろう。

各人の個性を尊重し、その持っている可能性を引き出そうと努める教育。
歴史的な諸条件の中で、ひとりひとりの児童生徒が、
かけがえのない人間的個性を形成することを目標に行なうという
教育思想に基づく教育。

(コトバンクより引用→個性教育

「ゆとり世代」とは、2002年から始まった。

遡ると、1983年に漫画『ビー・バップ・ハイスクール』が始まり、
2000年代に入ってからも、テレビドラマの特別番組が2004年・2005年に制作される。
暴走族がかっこいいというイメージが作られていった。
非行や校内暴力などが目立つようになったのはこの頃だと考える。

この時期の教育関係者は大変だっただろう。
もしかしたら自分が受け持った生徒が非行に走ったりしないか、
卒業して社会人となり、犯罪を犯すのではないかと
戦々恐々としていたかもししれない。

それによって、名だたる教育機関は『ゆとり教育』という“個性”を大事にする教育方針に転換した。

ちなみに冒頭の『世界に一つだけの花』のリリースは 2003年である。
ゆとり教育が始まった1年後である。

教育機関は諦めた
計ったかのような年代についてはさておき、非行や不良などやりたい放題な生徒に手を焼き、終いには放り出したのだ。
知識量重視型教育ではなく、思考力を鍛える方針に転換するという
お題目のもと学校が子供に背を向けたのだ。

そもそも不良は勉強なんかしていないから知識量は関係なく、
真面目に勉強していた者の知識量は減り、学力が下がるだけである。

そして、「個性」が叫ばれる。

個性を叫びながら、学校生活そのものは旧日本軍にも似た一律で、
何も変わらない。髪型も服装も何も変えるわけでもない方針転換。
結果は学校や社会にいい顔をする思考停止人間が量産される。

「個性」とは“個の性質”などではなく、
単に洗脳によって大人のいいなりになる子供を量産し、
自分たちのこれからの利益を守るための策であると考える。

要するに「扱いやすい人間をつくる教育」が「ゆとり教育」であり、
「個性教育」などではなくただの同調圧力を有効活用した「洗脳」であるにすぎない。

「みんな違ってみんないい」の“いい”とはどういうことだろうか。
あの素晴らしい詩の一節を曲解したのではないか。

認めきれない、まとめきれない、理解できないと諦めの言葉として、
「みんなちがってみんな“どうでも”いい」と匙を投げたのではないか。

■個性教育・ゆとり教育が生んだ差別

・【異分子】にも居場所はあった
日本は東の小さな島国であり、けっこうな時期まで鎖国をして
他国を寄せ付けなかった。
長い歴史の中で見ると、他国の文化や宗教が一般市民の目にもわかるように
なったのは“最近”のことである。

“個”を重要視し相手を無下に切り捨てることなく、
誰かを気にかけたり声を掛け合ったりしていた。
昔の長屋などは隣近所はもう家族のような感覚であったように思う。
小さな島国だからこそ一丸となって生活をしていたのだ。

その中にはやはり逸脱する者がいたはずだ。
現代と同じように、異なる価値観や信念を持つ者、
一般社会では生きるのに難がある者もいたはずだ。

しかし現代のように個性という言い訳がましい言葉は使っていなかったのではないか。個性だ、尊重だと口先では言わなかった。

そういう人間は何の衒いもなくキチガイと言われていたのだろう。
しかし、そういう人間がいたからこそ現代までの発展を遂げたということもあるはずだ。

想像の話になるが、「日本、鎖国してたらダメなんじゃね?」なんて思っていた人間もいただろう。
「西洋はかっこいい。」なんて言ってキチガイだと言われたかもしれない。
「戦争行きたくねぇなぁ。」と言えば非国民だと言われただろう。

そんな人の思いが、はっきりと名言し史実に名を残していないにしても
その思いが現代を作ってきたのではないか。

キチガイだと蔑まれた彼らは侮辱はされることはあったにしても
周りの人間はしっかりとそれを認めていた。
認めていた、とは違うかもしれない。知っていた、認識していた。

社会の中の【異分子】として社会の中に居場所があったのだ。

・「個性」という名の差別
だが、今の社会は「個性」という免罪符のおかげで、
「洗脳された扱いやすい人間」以外の人間を「個性的」だとして
一括りにして、社会の外へ放り出し見えないものにしてしまう。

そういう人間が社会の外で何もできず死んでいく様を
洗脳された仲間同士で見ながら笑っているのだ。

それは教師と生徒間の話だけではなく、生徒同士の話でもある。
“自らと違う者は叩いて殺す”という裏のスローガンを
刷り込まれているのだ。

学校や社会が認めきれない、理解できない人間を叩いて殺す。
これが個性教育の実態であり、
「個性」は「差別」と同義になってしまった。


『学校や社会のレールに沿っていないから、洗脳されていないから、
“個性的”なあなたは社会の外へでてください。』と追いやり、

「最低限度の生活ではなく“最低限の生活”で粟稗霞でも食って生きろ、
お前みたいなのは死んでもかまわん。」と言っているのだ。

■ただの【異分子】から社会不適合者へ

・人は綺麗な側面ばかりではないはず
個性だ個性だと叫びながら、学校や社会では没個性化を図り、
社会や他者から求められない、理解されない人間は、
その心ない言葉や行為によって【過負荷】を経験する。

そして社会の外で、見たこともないモンスターに変貌するのだ。

私は自分自身を美化しない。
私はおそらく犯罪者の気質さえも備えているかもしれない。
否定はしない。
朝起きて、眠くてイライラしてどこか爆破してやりたいと思うこともある。
心ない言葉をかけられ傷ついて、殺してやろうかとも思う。

かたやドキュメンタリーで飢える子供を見たり、勝手な感情で殺された人を見ると何かしたい、もっと優しい世の中にしたいとも思う。

そういう斑な気質というか、清濁併せ持つ個体が私だ。

それは社会の外にいて、爆破でもしないと解決しない問題や、
殺しでもしないと何も変わらないという問題に直面したからである。
ただその時、同じ社会の外にいる人間に救われたのだ。

そういう人間に優しさや暖かさを教わったからこそ、今も娑婆でのうのうと生き続けているのだ。

そして私はそういう清濁併せ持ち、いいも悪いも、正義も悪も
内包している人間でありたいと思うし、そういった人間が好きだ。
ある時は善人で、ある時は悪人で、誰かにとってのヒーローで、
誰かにとっては憎むべき相手で、さまざまな人がその中で生きている。

人とは、そういうものではないだろうか。

・私はいらない人間である
私は学校にも社会にも居場所はなかった。
社会の外で生きるしかなかった。
運良く社会の洗脳は私には通用しなかったようだ。

私は自分を“世界に一つだけの花”なんて思ったことはない。

その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい。

あの歌ではそう歌っているが、私が咲かせようとした花は、
社会がものの見事に摘んでくれた。

学校や社会が認める花は全て同じである。

一人一人違う種を持つ。

あの歌はそう歌っているが、違うのは“種”のときだけである。
花になる間に「洗脳」と「同調圧力」という栄養を与えられ、
見事に教授できた者はみな同じ花を咲かす。

みな同じ花だからある意味【世界に“一つだけ”の花】であるかもしれない。

■鈴と、小鳥と、それから私、

・優しい詩
私はこの詩が大好きだ。
すべての違いを認める素晴らしい詩であると考える。
解釈はまったく違うかもしれない。
私は学がないし、なにより社会の外の人間だ。

私が一番素晴らしいと思うのは、“みんなちがって、みんないい。”
の直前、“鈴と、小鳥と、それから私、”の一節である。
これはすべてのものを許容するすばらしい文であると考える。

鈴と、小鳥と、それから私、

句読点があることで、それぞれが違う世界観で生きているんだという感じがする。そしてそれが一文に中に収まっていることで、同じ枠の中にいるんだなと感じることができる。

鳥は地面を早く走りたいなんて思わないだろう。
それは飛ぶことが有利で、優勢で、という話ではなく、
ただ鳥は飛ぶものだからだ。

鈴もたくさんの唄を知りたいとは思わないだろう。
それは鈴の音は鈴の音でしかないからだ。
それを悔しがる鈴はいない。

各々の世界で、各々のすべきことがあり、それをまっとうすることが
生きるということで、その生きるということが
人間においてもそれぞれ“違っていて”、
それでもこの世にいてくれることがうれしい、
そんな究極の優しさのように感じるのだ。

・NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one?
本当にもともと特別なオンリーワンなのだろうか?
もしそうだったとしたら、どうして学校ではその「個性」を矯正するような
教育ばかりなのか。

希少なものはそのままの方が価値があるのではないか。
そしてNO,1にならなくてもいいのである。

せっかくの希少性を矯正され没個性化させられ、競走もしなくていい。

私には「言われた通り動け、考えるな、何もするな。」としか聞こえない。
社会に出れば、否応なく競争をさせられる。
この歌を信じて、「自分はオンリーワンだ!」と思い込み、
喜び勇んで社会に出たはいいものの、歌詞とはうって変わって違う世界だった。

教育のせいで個性はなくなり、自分と同じような人間がわんさかいて、
「代わりなんていくらでもいる」という現実を突きつけられる。
競争しようにもやり方がわからない。NO.1なんて目指したことがないからだ。人を裏切り、蹴落とし、家庭は顧みず、ただ粛々と言われたまま動く。

そうやって、たかがはたらくことで死人が出る。

だれもこれを馬鹿馬鹿しいと言っていないところが不思議でならない。

“NO.1”になろうとすれば、命を落としかねない茨の道。
もうとうの昔にあなただけの個性は消されて
“オンリーワン”ではなくなった。




そんなあなたはいったい、だれなんですか?


■まとめ

・「個性」とはそのもの特有の性質。個人性。パーソナリティーである。

・過剰な「個性」は教育機関の諦めから形を変えた。

・教育機関は「個性教育」と称し、「扱いやすい人間をつくる教育」をはじめた。

・以前の日本は【異分子】にも居場所があったが、現代では「個性」は被差別民となり社会の外へ追い出されるようになった。

・社会に出ても、オンリーワンだったはずの「個性」は学校や社会の扱いやすい人間にするために消されてしまい、NO,1になることも推奨されず
競争すらできない。そのためやらなくていい争いや諍いで人が死ぬ。


・唯一社会が社会であることを維持したいのであれば、清濁併せのみ社会不適合者を認めるしかない。


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