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#2 「社会の敵」は社会そのものが生み出す?

【社会不適合者と底辺の関係性】の第二回である。

今回は【社会不適合者】が社会不適合者たる所以、パプリックエネミーであることの理由を綴る。

■前回のおさらい

前回は、社会不適合者とは言え、精神的なトラウマなどで社会生活がままならないものは「不適合」とは言い難いと書いた。
彼らには社会参加の意思があるからだ。社会参加の意思はあれど、
さまざまな事情で精神が疲弊し、体に影響を及ぼしなかなか
大衆と同じような行動がとれないだけである。

真の社会不適合者とは【パブリックエネミー】という「社会の敵」という要素を内包している。
それは思想や信念が一般の大衆とは大きな相違があるからである。

■「社会」の「敵」、パブリックエネミーとは。

パブリックエネミーとは「社会の敵」である。

最近、とある政治関連の方がこの言葉をtwitterで使い、ちょっとした騒動になったようだ。

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(アカウント等は伏せておきます)

「オタク」を「萌え豚」と称することが適さないという話の流れから
「パブリックエネミー」という言葉が出ている。

私は別に政治批判も政治家がどうのというつもりはない。
誰が放った言葉かなんて興味がないからだ。
そしてこの発言によってさまざまな考察がなされ、発言の本質や
真相までも先へ先へと進んでいる。
この発言者がどういった意図でこの発言をしたかということも
真実は本人しかわからない。

【オタク=パブリックエネミー】という構図ではないという反論も多数見受けられる。上記の構図ではなかった、オタクを「社会の敵」とは言っていない、とこの発言者の真実が分かったとしてもそれは私の中ではあまり重要ではない。真実はtwitterのタイムラインを遡り、高度で適切で限りなく理解力のある人間が解き明かせばよい。

なぜならば、そういう「オタク」なるものは社会ではまさにパブリックエネミー的扱いを受けているからだ。

いくら発言者本人が違う違うと言っても、周りの人間がそうではないといったところで「社会」という茫漠としたモノは常に、
【オタク=パブリックエネミー】という構図を描いているのだ。

発言者の支持者的な者たちの中には、「児童ポルノや犯罪に手を染める者」と一般の「オタク」を分けなければならないという趣旨の発言だったというようなものもあるがそれも文字列上の話であって、現実問題で考えると
犯罪に手を染める者も、一般のオタクも同一視されていて、
いくら文字や呼称で分けたところで民衆はそんなもの関係ないのだ。

一般的な女性ならばいわゆる「オタク」を見て「気持ち悪い」と言うだろう。もちろんそう言った発言をしない女性もいる。
しかし、一般のオタクではない男性よりも距離を置くのではないか。

純粋なアニメ好きだったとしても、一般の女性には「児童アニメポルノを愛する者」であり、犯罪に手を染める者だと、誤認なのかそう思い込みたいのかはしらないが扱いに大差はない。

そういう者たちが見えないところで勝手に楽しんでいる場合には
見えないふりをしているが、パッと目の前に現れると一生懸命叩き出す。

おそらく一般層は「犯罪的」な人種と「犯罪的ではない」人種の区別をする能力はない。人は安全を求める上で、楽観的な感覚が命取りであることを知っている。「犯罪性があるか否か」ということを判断するより、
疑わしい者は「犯罪性有り」として距離をとるだろう。

それが「気持ち悪い」の根源であり、数多くの女性が不快感を感じ、
おおっぴらに発言をしない者もそっと距離をとる理由ではないだろうか。

オタクに限ったことではない。
一般とは何か違った価値観や素養を持った者は、日々見つからないように
生活しており、それが何かのきっかけで大衆の目に触れたりすると、
社会は一斉に攻撃モードへと転じる。

パブリックエネミーとは一般からは考え方や価値観、素養、見た目も含め、
一般層が認め難い者たちのことを指す。
その者たちが悪行をしているしていないに関わらずである。

■パブリックエネミーはどこからやってくるのか。

そして問題はこのパブリックエネミーはどこからやってくるのか。
答えは簡単である。

パブリックエネミーは社会そのものが生むものだと考える。

正しいか正しくないかは関係なく大多数の意見や情報を黙って飲み込み、
自分自身が「社会」という枠からはみ出さないために、
自分自身が大多数と同じ意見を持っていますという確認のため、
考え方や価値観、素養、見た目が違う者を生贄として生み出している。

その生贄を大多数のみんなで叩いて殺し、
万歳三唱して立派な「社会人」なのである。
「自分たち」と違う者を殺して初めて社会の一員と認められる儀式である。

この儀式を行い、結束を固めるために「社会の敵」は生み出される。

私が思うパブリックエネミーの性質が色濃く出た大きな事件が二つある。

①和歌山毒物カレー事件
②奈良騒音傷害事件

多くは語らない。気になる人はご自身で調べてみるといい。
私は捜査機関でも弁護士でも検察でもない。
ただ、TVや雑誌だけではなくある程度ネットで開示されている情報で
鑑みた結果、はたして現在一般層が思っている結末が正しいのかと疑わしくなる。

本当にカレーに毒を入れたのはあの女性だったのか?
あのおばさんはTVや雑誌で見る気が狂ったような人だったのか?

毒物入りカレーは夏祭り、騒音障害はご近所トラブル。
どちらも構図は【一人vs多数】。

どちらも犯人とされる者をその他大勢の人間が見知っており、
普段から関係はよくなかった。
そんなその他大勢の人間が被害にあっている。
被害にあったたくさんの人間たちが“証言”をしている。

証言したのは被害にあった数多くの“一般の”人間たちである。

■もう一つのパブリックエネミー

もう一つ紹介したい事件がある。
佐村河内氏のゴーストライター問題である。
これは事件ではなく問題とされている。

これについても内容などは多くは語らない。
ただ、私にはこの人の何が悪かったのかわからない。

別の人間がピアノを弾いていたから?
全聾だと嘘をついたから?

指示だけを出して、プレイヤーが別なんて話はよく聞く話なのだけど
どうしてダメだったのか。
実際にピアノを弾いた人の名前がクレジットされなかったから?
関わりました、携わりましたという人がクレジットされずに、
プレイヤーの名前だけ出るとうのもこの件だけではないはずだ。

たまたま週刊誌にすっぱ抜かれてこの件が露出した。
そしてさも【佐村河内氏が行った悪行】のように、実際には
【ペテン師】と書かれていたが、世間は誘導された。

彼をみんなが【叩いてもいい者】として認識した。

私の勝手な見解であるが、
日本は音楽において一人の天才となる可能性を秘めた者を失ったかもしれない。彼の指示書は従来の楽譜とはまるっきり違うものだった。

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こんな今までにないような楽譜を描ける者をつまらないことで追い詰め、
舞台から引きずり下ろしたのはもったいない。
もしかしたらクラシックだけではなく、音楽自体の方法論に新しい波がおこせたかもしれない。

おそらくこういった素敵な才能、一般層の想像の範囲を超えた者ですら
人は「違い」と認識し、欠点や弱みを見つけ排除しようとする。
それが作られた欠点や弱みであっても生贄にするにはもってこいなのだ。
【パブリックエネミー】、社会の敵として。

■社会不適合者を敵にする

社会がパブリックエネミーを生む。
常に生贄を探し、欠点や弱点を見つけたら一斉に大勢で叩いて殺す。

そこで一番叩きやすいのは社会不適合者である。
社会不適合者とは、思想や価値観が著しく一般的な大衆と相違があり、
その点で社会生活に困難をきたす者のことを指す、と前回定義した。

【ヤクザ】と言われれば内情などはTVやニュースで言った通りで、
悪いものだと叩いて殺す。

【萌え豚】と言われればどんな人間か、どんな作品かは置いといてとりあえず性犯罪者ということにしておこう。

社会不適合者は考え方、思想、価値観などによって普段から鼻つまみものなのだ。常に社会の敵、生贄にしてもよいと認識されているのではないだろうか。

しかし佐村河内氏のように実は社会不適合者の中には素晴らしい才能や能力を持っている場合がある。
そのパワーやセンスを人は「恐怖」いや「畏怖」と感じ、
現状に変化を起こすかもしれない因子を排除しようとするのかもしれない。
あるジャンルひとつに全能力値を振ったために
他のことに対する意識や行動が弱くなってしまったところを
欠点や弱点として叩くのだ。

「助けてください。社会参加したいです。」という弱っている人は一生懸命救う。しかし、何かに信念や価値観を見出し、能力値全振りのスーパーパワーを持つ者にたいしては、「そんな勝手はゆるさん。」といいながら
叩いて殺す。

片方の手では助けを乞う人間の頭を撫でながら。

次回は【底辺】と呼ばれるものについて書いていこう。




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