短編 バイオリニストと万年筆02

向こうに着いたら僕から手紙を書きます、と彼は言った。

このまま手紙がこない、ということも大いにあるだろうと、私は思っていた。他にもいくつか演奏の仕事を受けているそうで、日本に一週間ほど滞在してからドイツへ戻ると言っていた。それからドイツへ帰って、一息ついて、手紙を書く。その時間は、私にとってはとても長いものに感じられた。そこにたどり着くまでに、気が変わるかもしれない。
一週間の滞在の間に、別の誰かと出会うかもしれない。いろいろな場所で演奏し、刺激を受け、考えが変わるかもしれない。日本を離れてドイツ行きの飛行機に乗る頃には、日本の片隅で出会った、ほんの一時間ばかり会話を交わしただけの、さして特徴もない女のことなど、忘れているかもしれない。

私は期待せずに日々を過ごした。いつも通りに職場へ行き、休憩中にはパンを食べながら本を読み、残業はせずに帰宅した。
私の仕事は家電量販店でインターネットの回線を販売することだった。

テレビやパソコンを買いに来たお客様に、一緒にインターネットに加入することを勧める仕事。正直、優秀な契約社員だとは到底言えない。私の契約件数は、この半年間でたったの2件だった。詐欺スレスレなのではないかと思われるような営業トークで、あまりよくわかっていない高齢の方や、上京したての10代の少年少女を契約させている「優良社員」も一定数いたが、私にはどうにも、それを出来るようになりたいとは思えなかった。
とはいえ、派遣の契約社員なのでずっと同じ店舗にいるわけではなく、いろいろな量販店を回るため、同僚もその都度変わるし、休憩中もそれぞれ過ごしている人が多く、そこが私にとっては魅力だった。時給も高く、シフトの融通も利くため、役者やミュージシャンを目指している人が結構いた。深入りする必要がなく、自分のペースで過ごせて、あまり浮かない、というわけで、気が楽な環境ではあった。

一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。ドイツから日本への郵便はどれくらいかかるんだろう。私は期待しないようにと自分に言い聞かせながら、今頃彼は飛行機の中だろうか、どんな気持ちでいるんだろうか、などと想像を巡らせていた。
シャンパン色の雲海に潜る、明け方のトランジット。雲の中を通過して、やがて眼下には海が広がる。そんな光景を眺めている彼。傍らにはバイオリンのケース。などと、ロマンチックな光景がよぎる。
バイオリンは手荷物なんだろうか。トランジットは明け方にも行われるのであろうか。急に作家ぶったようなマインドが発動し、そのロマンチックな光景が実際に成立するのかどうか調べ始めたこともある。その中で、楽器用の座席を購入すれば、機内に持ち込める、とあった。憂いを帯びた顔で窓の外を眺める彼の隣の座席には、バイオリンがシートベルトをして座っているというのか。椅子にフランスパンが座っている、というダリの絵がもよおさせる笑いと、だいたい一緒の感情に包まれた。私は一喜一憂、浮き沈みしながら、妄想にまかせて時を過ごした。

彼と出会って19日目に、手紙が届いた。私は郵便受けの前で、足元から頭の先に向かって震えが突き抜け終わるのをしばらく待たなくてはならなかった。ほんとうに、手紙が来たのだ。震えは突き抜けた後もみぞおちあたりに長く宿り、私は音もなくゆっくりと、長く長く、息を吐いた。


続く

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