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短編 バイオリニストと万年筆05

飲食店でアルバイトしていた時、料理人の先輩が教えてくれたことがある。

どうして料理人は作った料理を自分で運ばないんだ思う? 先輩が言うには、調理スタッフとホールスタッフが分かれているのは、効率だけの意味じゃなくて、そっちの方が人間関係としてうまくいくから、だそうだ。
例えば、料理人が自分の料理をサーブしたら、お客様に対してその料理の紹介を、いかにも美味しそうに、饒舌に語るのはちょっとやりづらいのではないか。あるいはお客様の方も、もしも料理に対して物申したいことがあった時、作った本人を目の前には、言いづらいこともあるのではないか。そういう、人間同士のギクシャクや違和感を避けるために、料理人とそれを運ぶ人間は別人なのだと言っていた。

「お姉さんさあ、あとでキャンセルすることは可能ですって言ったよね?」

クレーム対応も、同じことだと私は思う。
私は、立ちはだかるおじさんの前に立って頭を下げていた。

近いうちにそんなことになるのではと思っていたのだが、私はとうとう仕事でミスをした。あれだけ手紙のことに心を囚われていれば日常のどこかに支障をきたす。
ミスしておいてなんだが、ミスした本人にとって、そのクレーム対応ほどやりづらいものはない。お客様が呼んでいるから対応してくれ、と言われてのこのこやってきたものの、こういうときは自分の言い分を言ってもいいんだろうか。それともひたすら謝るのが正解?

「あの、申し訳ございません。私が申し上げたのは…」

「お客様、ご説明が不十分だったようで申し訳ございませーん! 中には、特典だけ受けてあとでキャンセルすればいいじゃないかって方もいらっしゃるんですよ。そうならないように、事後のキャンセルは出来ません、というシステムになっちゃったんですよね。いい人ばっかりだったらこんなシステムいらなかったんですけどね〜。世の中色々な人がいますもんね。それでキャンセルご希望というのは、どういった理由でございますか?」

それからしばらく話し込んで、お客様は契約のキャンセルをし、受け取った特典を返上して帰った。

助け舟を出してくれたのは何度か一緒になったことのある、私と同じ立場の派遣社員の女性だった。ピアスホールが何個もあいていて、勤務中にはそこに透明な樹脂ピアスがはまっていた。穴の収縮を防ぐためらしい。ピアスの同僚は、退店しようとしているおじさんの背中に視線を投げて、お前みたいなやつがいるからこうなったんだっての、と悪態をついた。語学留学でアメリカに行っていたらしい。遠くから相手を呪うみたいに、スラングらしい英語を呟いた。

私は丁重に礼を言って、次の日、通りがかりのパン屋で数枚のクッキー詰め合わせを買ってピアスの同僚に渡した。上司はお客様が呼んでるから対応よろしく、と私を献上したにも関わらず、彼女が助け舟を出してくれて本当に助かったので、お礼をしたかったのだ。しかし。

「え、いらない」

こんなことってあるのだろうか。お礼で渡したクッキーが、受け取ってもらえないことなど。もしかして、甘いものが苦手とか? でも、休憩中にクッキーを食べているのを見たことがあったので、これを選んだつもりだったのだが。

「ありがとう。でも、大したことしてないし、こんなんもらったら、次また同じことがあったらさー、やりづらいっていうか、なんかお礼目当てみたいで…。あ、また同じことあったらって、ないと思うけどさ。失礼! ははは」

人の善意を、こんな風に鮮やかにはねのけることって出来るんだな、と私は感心してしまった。普通は、そんなこと言わないで大したもんじゃないから!などと、もう一押しくらいするのが常識的なのかな、でも、そんな常識に従うべき空気かな今は、などと考えあぐねてぼーっとしていると、ピアスの同僚も少し困ったようだった。

「それじゃあ、一枚だけちょうだい。いま」

同僚は私の返事も待たず、私の手の中で行き場を失い宙ぶらりんになったクッキーの包みをがさっと掴んで、リボンを解いてクッキーを一枚取り出し、半分くらいを一気にかじって私を見た。

「おいひー、ありがと」

それで、クッキーを頬張ったまま、バックヤードから売り場に出て行った。これもアメリカの成せるワザなのかしら。

私はバイオリニストの彼と、いらない、とあっさり言い放ったピアスの同僚が出会うところを想像してみた。何か書くものを貸してもらえますか?と彼が聞く。ピアスの同僚は、はい、と万年筆を差し出す。彼は言う。「僕は左利きなんだけど、使っても構わないですか?」彼女は言う。「あ、無理。ちょっと待ってて」それから彼女は誰かにボールペンを借りて、ついでに紙コップに入ったシャンパンとカナッペを持ってやってくる。どうぞ。ちょっと持っててくれる?飲んでも構わないけど。なんて言って、彼の胸ポケットにまずボールペンをさして、両手にはシャンパンとカナッペを持たせる。それから自分の分のシャンパンを持ってくる。乾杯しよう、と彼女は言う。彼は笑ってドイツ語で、彼女は英語で乾杯を交わすのだ。チアーズ。

ため息をひとつ。
なんだか自分がばかみたい。今日こそ手紙を書いて、あした投函する、と私は決めた。


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