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短編 バイオリニストと万年筆07

「どうして僕が手を抜いて演奏をしていることがわかったんでしょうか」

彼から来た手紙の返事は、そんな一文から始まっていた。まさか本当に手を抜いていただなんて、私は全然、気がついていなかったのだ。

返事が来たのは、私が手紙を出してから二週間後のことだった。私は彼からの返事を待つ間、「日に焼けた日本男児」から「憂いのある細身の青年」に脳内変更されてしまった主人公の物語を書き進めていた。
主人公は、人探しの事件に巻き込まれる。妖怪や迷信がまだ実在していそうな、古い慣習に縛られた農村で、現実と非現実を行き来する。物語の中で主人公は、風の音や、トタンと木の柱がぶつかり合う不穏な音に耳を澄ませ、半ば上の空で雑草だらけのあぜ道を歩いたりしていた。「演奏する」という動作が「歩く」に変更されただけで、その姿は、そのまま私の中に存在するバイオリニストの彼そのものだった。

いつの間にか、私は私の中に存在する、ある一人のバイオリニストの物語を描いていた。そして、今までにないくらいのスピードで、小説は形になっていった。物語に行き詰まると、あのバイオリニストだったら一体どうするだろう、と考え、きっとこう動くであろう、というその行動が物語を次のシーンへと引っ張っていった。最初に想定していた筋書きからはかなり外れていたが、構わなかった。いつまででも書いていたいと思った。

そして同時に、私はそのことを、人には言えない恥ずかしいことのように感じていた。彼ならどうするだろう、とほとんど知らない男性のことを勝手に一人で考え、妄想し、妄想の中で勝手に彼を動かす。結局それは、頭の中で自分の思い通りに動かし、本物の彼を捻じ曲げることのようにも思われた。男の人が(女の人が)、好きな人のことを想像しながら自分で性的な欲求を満たすことと、何が違うのだろう。自分のことを、きもちわるいと思った。しかし背徳感を伴えば伴うほど、後頭部から足の先まで痺れるような描写が書けた。

そんな時、彼から返事がきた。私は、それを読んだら目が覚めてしまうような気がして、まる二日間、その手紙を開かなかった。
人知れず積み重ねた罪悪感が、気を重くさせたのもある。物語がクライマックスにさしかかっていたのもある。とにかく、彼の新しい情報を入れることで、私の中に構築された虚構の彼が更新され、また主人公像が変わってしまう気がして、手紙を読まずに、憑かれたように小説に打ち込んだ。

そして三日目の深夜、小説の第一稿が仕上がったので、半ば放心状態の明け方、布団の中で手紙を開けた。その手紙は、最初の一通みたいにお洒落なポストカードに小綺麗にまとめられているものではなく、便箋3枚にわたる長い長い手紙だった。そして、最初の一文が目に飛び込んで来た。彼の筆跡は、前回の手紙と全くと言っていいほど異なっていた。その文章の全体をざっと眺めただけで、私が物語の中で密かに育ててきた彼の人物像は、ぐにゃりと形を変えた。

「どうして僕が手を抜いて演奏をしていることがわかったんでしょうか。ちょっと驚いています。僕は本当に、上の空で演奏しているのかもしれません。
この話をするのには、まず僕の母親のことを語る必要があります。ドイツで音楽の勉強をしているのは事実だけれど、それは母親の仕事の関係で、僕はついてきただけなんです。僕の母親はキュレーターという仕事をしていて、様々な美術作品を貸し借り、時には売り買いしたり、美術展を企画したり、ヨーロッパの国々を行き来しています。僕のやっているバイオリンの仕事のほとんどは、母親が契約してきた仕事。ホールでクラシックをやるのは古いそうで、音楽以外のジャンルと融合させるのがウンヌンカンヌン(漢字がわからない)と言って、変わった仕事ばかりを取ってくるのです。
話が変わりますが、僕が小さい頃母親に与えられたバイオリンは、左利き用のバイオリンでした。バイオリンは普通、左利きだとしても、右利き用のものを使用するんです。そうじゃないと、合奏する時に、手が反対だとぶつかるし、見栄えも良くない。でも、母親はわざわざ特注のものを頼んで、それで練習させました。バイオリンの先生も、そんなこと一つも教えてくれなかった。母親が連れてきた先生でしたから、2人の間では何かやりとりがあったかもしれませんが。ああいう母親だから、見栄えをよくするためにみんなと同じことをやる、そのために利き手を捻じ曲げる、みたいなことが嫌だったのかもしれません。でも実際、バイオリンというのは左利きだから不利ということもない、と聞きます。
僕は、高校生になるまで、全然気づかずにいました。そして部活で合奏をやる時に、先生が困った顔で一番端に僕の並び順を指定しました。その時初めて、おかしいなと気がついたのです。それからのことは語れば長いのだけど、とにかく僕は、自分の意思で、右用のバイオリンを練習したのです」

手紙はここまででようやく三分の一だった。私はここまで読んで、一旦仰向けに転がり、天井を仰ぎ見て、深呼吸をした。彼が、自分のことを私に向かって話してくれている。そのことは、めまいがするほど胸の高鳴ることだった。しかし同時に、急な吐露にちょっと気圧されてしまった。いやいやいや、こっちが勝手に妄想を膨らませて理想化していただけで、彼はずっとこの彼だったのだし、私たちはこれからお互いを知っていくのだし、彼がこれまで、どれだけ苦しんできたのかは知る由もないのだし、手紙はまだ最後まで読んでいないのだし、偉そうに私が判断することなど何もないのだし、とにかく。
あれーちょっと違うなあ、というこのボンクラな我が直感よ、黙りたまえ。私はなるべく心を無にして、手紙に向き直る。

「実は右手を左手のように使うために、文字は右で書くようにしているんです」
次の段落にはそう書かれていた。

それで色々なことがぶわっと繋がってしまった。前回の手紙は右手で、今回の手紙は左手で書かれていたわけだ。それで筆跡が別人のように違う。最初に万年筆を貸した時に、左利きだけどいいですか? と聞いてきたことも、なんだかだいぶ色合いが変わってきてしまった。左利きである、というさほど少数でもない、そしてさほど悲観的に捉えるべきでもない小さな個性に、彼は随分翻弄されてきたようであった。左手を封ぜしバイオリニストか。…なんかダサい響きだな。いや今のは前言撤回。私の言い方の問題だから今の。なんか悪意があるよ、よくないよ。そう、彼はただの左利きではない。彼はバイオリニストで、左用のバイオリンを持たされた、悲劇の過去を持っていて。いや、もちろん馬鹿にしてはいない。私は決してからかっているわけではない。

自分にとってはなんでもないことでも、人にとってはとっても一大事だったりする。だから、人が一生懸命やっていることを安易にバカにしてはいけない。でも、思ったことを外に出さずに、思うだけなら自由だと思う。私は言おう。脳内で言おう。

マザーにコンプレックス。母親の呪いがすごいぜ。


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