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「たった一文字の『み』が指すこと」♯ことば展覧会

1歳9ヶ月になる娘が言葉を覚え始めている。

好きなものに関しては無限のスポンジ能力を発揮し、

・ぜんちけいたいおうしゃ(全地形対応車)

・バッファ(きかんしゃトーマスの部品)

・コーヒー豆の貨車(きかんしゃトーマスに登場)

などを判別できる。「全地形対応車どれ?」と尋ねると、正しいものを指差せるという具合だ。

一方で、自分で言葉を発するのはまだまだ単語にも満たないレベルで、

・ぬ(服を脱ぎたい)

・ば(バナナが欲しい)

・とーと(お父さん/トーマス/ゴードン)

というレベルである。そして最近は海中の映像を観るのにハマっていて、「み」というと「海の映像を観たい」であることが多い(たまに「みかん食べたい」の場合がある)。

とはいえ、海の映像も「み」であれば、蛸のおもちゃも「み」、水族館のイルカも「み」、同じ方向をむくチンアナゴも「み」である。娘の中では「海」はまだ海に関わる全てのものを指している状態で、これから娘なりの線引きが始まり、これは海ではなく海に住む「さかな」という名称の生き物なのだ。これはさかなの中でも「クマノミ」なのだ。という風に娘の海が切り分けられ、世界がむくむくと認識されて行くのだと思うと、なんだか胸がドキドキしてしまう。

大人である私は、すでに世界の切り分けは結構なところまで進んでいるつもりでいる。意識しなければその既存の切り分けに左右されて考えることをやめてしまいがちだ。言葉に合わせて世界がある訳ではなく、世界が先にあって、それらが名付けられていったはずなのに、大人になるにつれて後・先は曖昧になって行く。既に存在していた圧倒的な世界に生まれ落ちた新しい参入者だったはずなのに、いつの間にか世界の一部になって、世界への違和感を忘れてしまうのだ。

新たなる参入者が言葉を獲得してゆく過程に立ち会うことが出来るなんて、親というのはなかなか幸福なものだと思った。もう一度、世界が未知に満ちていた頃の眼差しを擬似的に体験させてもらえるなんてすごい。娘がこれなあに?と言わんばかりに消防車の名もなきパーツを指差すたび、「ほうすいこう」「きゅうすいコック」という名称を知り、私の中の名もなきパーツだったものに名前が与えられる。沖縄の美しい海の底を動画で観て歓声をあげる娘を前に、それらの魚の名称を、私はほとんど知らないことに気がつく。名前を知るのは楽しい。自分の世界が広がるように感じる。ああ、私の世界もまだまだ未知に満ちていたんだったな、と改めて教えられる。

よって「言葉って○○」と格好良くまとめたいところだが、どうしたものか。例えば「言葉は娘の海を切り分けるもの」というのはどうだろう。ちょっとまどろっこしい気がする。「海を切り分けるもの」をもっとこう、シュッと言い表したいものだ。海を分ける、と聞いて私の頭の中にさっきから浮かんでいるものが実はある。というより、それが鬱陶しくて他の例えが思いつかない。それは映画「十戒」で観た、モーゼの海割りである。海が左右にバッカーン!と割れるあれである。いやいやいや、あれは激しすぎる。切り分けるっていうか割ってるからね。でも脳内スクリーンにあれが大写しでもう、他の例えに行かせてくれない。アゴをぐっと掴まれてモーゼに凄まれている。これはもう観念するしかない。相手が海割りじゃ到底敵わない。

ということで、今の私にとって「言葉って、モーゼ」(アゴを掴まれながら)。


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