見出し画像

スーパーかあちゃんへの道 閑話休題

ブルーマンデー!
私は、子育てについて書けば書くほど、「子育てする母」になってゆく。

日曜日の作り置きが功を奏し、順調な月曜日。なんの問題もない。
でも、なんだかあれだ。ぬぼーんと、する。

ぬぼーん、というのはどんな状態を指すのか。こういう時は、「ぼーっとする」「しゅんとする」など、すでに慣用句的に使われている擬音で表した方が伝わりやすいだろう。ぬぼーん、はまだ市民権を得ていないので、ぬぼーんでは何も伝わらないと思う。いや、何もということはない。シャキリ!とか、ビシッ!ではないということは伝わっているのかもしれない。
「〜ではない」ばかり伝えて、結局「〜である」は一つも言わないってのは、どことなく仏教っぽいな。ぬぼーんは「脱梵」と書いたらどうだろう。「怒凡」でもいいか?
話がこう、脱線していくのもぬぼーんのせいなのだ。おそるべしぬぼーん。

それはさておき、私は一つ確認しておきたいことがある。
「スーパーかあちゃんシリーズ」は、子育てしているけど時間も欲しいので、家事を効率化して時間を作るぞ!という趣旨である。決して、有能・家事マシーンを目指しているわけではない。

それなのに、書けば書くほど、そっち方向に引っ張られがちというか、「子育てする母」というキャラクターが、濃くなっていくような気がする。

私は確かに「子育てする母」である。でも、それだけをしているわけではない。本を読むし、文章も書くし、書店で働いてもいる(ん? 本ばかり)。
でも、つい子育てのことばかり書いてしまうのは、なんなんだろう。

多分、子育ては絶対に毎日続くし、書くことが何もない、ということはほぼないくらいにネタに富んでいる。子供は奇想天外で成長著しく、私の方も子供を育てるということは初めてであるわけだから、七転八倒するし。
それに、「子育てに奮闘する母」というのはいつでも正しいからではないか、と思ったりもする。正しく、まばゆい。

いつでも正しい、などというのは乱暴な価値の付け方かもしれない。でも、なんとか今よりもうまくいくように、なんとか他者と共生できるようにという努力は、例えどんな地点から始めようとも悪い、ということはないのではないか。今いる場所から、自分が「こっちが前かなあ」と思う方向に進もうとする。その結果失敗したり、実は前ではなく後ろに向かっていたり、一歩も動けていなかったとしても、進もうとしてわちゃわちゃすることは、あいらしいような気がする。「子育てに奮闘する」という事態は、そういうことな気がする。

じゃ子育てするわたくしはあいらしいのですね。えへ。となればいいんだけれども、そういう話ではなくて、私はそんな、正しくまばゆいことを行い、書いている自分のことを、なんか変だなあと思っている。

「正しくまばゆい私」が書いているのではなく、書くことによって「正しくまばゆい私」になっていくような感じ。そうすると、私ってこんなに正しくまばゆかったっけ?となり、まばゆい私は、私によって作られた嘘のようでもあり、あるいは元からあったまばゆさが発掘されたのかもしれず、でもまばゆいことは居心地が悪い。ってことは、やはりまばゆくなかったのかもしれない。それは、どんな私だったのか。そんなことがぐるんぐるんと曼荼羅のようにまわり、ぬぼーんとなってしまうのだった。

あ、それがぬぼーんですね。

誰かが、「内面」はない。って言っていた(吉本隆明かな)。それってこういうことなんじゃないか。「ほんとうのわたし」はいなくて、私は自分がこれからどういう「外面」を出していくかによって、どんな私にでもなれる、みたいな。子育てする母、な自分が気に入らなければ、そうでない自分の「外面」になればいい、みたいな。

つまり、このnoteで言えば、子育てじゃない記事を書く、ってこと。
とは言え、一日の大半はやはり、子供中心に回っているのだから、そこをあえて存在しないかのように振る舞うのは、それはそれで不自然だ。
それに、別に「子育てする私」を恥じたり、拒絶しているわけではなく、まあ、それなりに楽しく育てているのだし、逃げ出したいわけじゃない。ただ、そうではない自分のことを、埋れさせたくないのだ。

バランス、の問題と考えることにしようと思う。子育て以外のことを、あえて選んで書く日が、ちょっとだけ増えるかもしれない。そうすることで、私にとっての「自然体」に少し近づいて、脱ぬぼーん、するかもしれない。


スーパーかあちゃんへの道は、果たしてどっちなんだろうか。



応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!