地下にいる、いた、いたい?

今年に入ってから、心境の変化があって、作品を量産しては公募に出すということをやっていた。2ヶ月が経過して、詩やらエッセイやら短編やら、色々なんでも、締め切り順に書き飛ばして応募してみた。

というのも、二十代中盤くらいからずっと、それなりに長いもの(といっても10万字くらい)を長いスパンをかけて書いていくということをやって来て、ここへ来てあんまりに筆が遅いんで(子供も生まれて、1日の作業時間がどうしても短い。ちょっとしたやることがインサートされただけですぐ書けなくなる。集中力続かず、散漫で進まない)、なんかサクサク作る、いろんなものを作るってどういう感じか、と思ったのだった。今年はそういう年にしよう、と決めたのに、開始2ヶ月でもう、作り終えたときにほぼ感慨がない、ということに倦んでいる。しかも、公募に出しといてあれだが、誰かに見せたいと思わない。タネを蒔いているような感覚で、本気で花咲かせよう!入選してやる!というよりは、締め切り欲しさに応募している感じ。色々書いてみたらなんか見えるかな?というくらいのことだ。

私にとって小説書くことは、基本的に苦しい。でも、書いている間の自分の鋭利さと、書き終える直前の高揚感と、書き終えてからしばらくの全能感、あるいは本当の心からの休息、は何事にも変えがたい悦楽で、また出し切った気持ち良さもあり、なんかもうドMだなって思うけど、苦しい時間の方がずっと長いのに抜け出せない。まあとにかく、そのカタルシスが全てなのに、書き飛ばしてばかりいるとなんのカタルシスもない。ということはつまり、対して悩んで書いてないわけで、悩まないと大したものは書けない、時間をかけないと書けない、みたいな根性論を振りかざすつもりは全くないのだけれど、一体私は書いてそれを見せるということに何を乗せているのか、と思う。若い頃は誰かの救いになれば、とか思っていたし、最近は、私が誰かとわかりあいたくて書いているのかとも思っていた。でももう今となっては、結局一周回って自分を救済するためなんではないかと思って来た。小説を書くという動機に良し悪し、優劣はなく出来上がった作品が全て、かもしれないが、それにしても自分の救済ってことはかなり独りよがりな感じなわけで、それっていい小説になりうるんだろうか。

何かでも、いつの頃からか私は何かを直視していない気がしている。
それが何かはよくわからないんだけど、もし直視していたら、もっと苦しいはずなのだ。私は今、あまり苦しくない。孤独を感じる隙間もないほどに日々はやるべきことに埋め尽くされているけれど、幸福と飢餓感は全く別物で、私はいつの頃からかずっと、間違ったところにいるような気がしている。それが、飢餓の正体かもしれない。

今日のような日はこんな無為な自問自答をいつまでもやっていたいものだ。結局こういううにゃうにゃが、一番のタネになったりしたりしなかったり。

応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!