不自由が楽ということをみんな知らない

自由になりたい!!

それがわたしの口癖だった。大学1年のころから授業、バイト、旅、学生団体etc..たくさんのことをやりつつ、就職なんてしない!と言い続けて、自由な自分を描きながら将来は世界中を旅するんだ~と妄想をしていた。少しでも私を縛ろうとする人や事には蹴りをくらわせ、「私はフリーダムだから!!」などと尖り切った考えをブスブスと刺していた。そのせいか私の周りにもちょっと変わった人たちが友人として残るようになった。

大学3年あたりになったころ、世間では「好きなことで生きていく」というフレーズが流行り始めた。youtuberといわれる動画クリエイターやエンタメ関連の市場に勢いが増し、嫌々会社で働いてる自分がバカらしい、人生1度きりなんだから好きなことしようぜっていう風潮が若者の中に浸透してきた。この風潮を東京でひしひしと感じていた私も、「やっぱり会社に就職して自分を殺しながら生きていくなんていやだ!」って思いが強くなり、どうにか自分の力で生きていく、それだけを信じて生活していた。

ところがだんだんチャレンジへの刺激なれをしてきたのか、毎日つまらない、達成感のない、わくわくしない生活がずっと続くようになった。大学3年の夏ごろからだろうか。いつも刺激を海外からもらっていた私は、これは海外へ行ってないせいだ!と思い込み3年修了時から1年休学してオーストラリアへワーホリへ行った。だけど、それも思い描くような達成感のある生活ではなかったから4か月でやめた。

そこから1年間、今に至るまでずーーーっともやもやするなにかを抱えながらニートをした。あれだけ毎日外にでていた私が毎日引きこもってyoutubeを見たり天井を見つめていたりと頭が気狂いしてしまうような生活をずっと続けた。授業もないし、バイトもしていない、おまけに実家住みなので飯もタダ、24時間という完全フリーダムでお金もある、私が求めていた自由を手に入れたのに、そこにいる私はなんの輝きもない脱力したシカバネのような自分だった。

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自由な時間を2年間与えられたときわたしはなにもできなかった。ありあまる時間をどう使おうか、なにを挑戦しようか、時間があればあるほどいろんな可能性を未来においてなにもできなかった。お金もあったし時間もあった。だけど、その2つの使い方がものすごく下手だった。

わたしは気づいた
遊ぶのが下手なんだと

ありあまった時間とお金で充実した生活を送ることができなかった。毎日YouTubeや映画をみてだらだらすごし、夕食を食べて深夜に寝る。そんななにも達成していない生活が苦しくて苦しくて、自由を求めて自由になったのに、そこには不自由を求めている自分がいた。

はやく誰か私になにか任務をくれよ と

そんなとき過去のあの時間に戻りたいと思う瞬間があった。それは大学の授業や高校の部活など、やらなければならないことに縛られている中で結果をだしつつそのスキマ時間にいろんなアイデアをだしながら遊んでいる自分。つまり、社会的な縛りとルールがある中でどうおもしろく充実した遊びをするかということだ。あの頃は不自由だと思っていたはずなのに、完全なる自由を手に入れたら不自由なあの頃に戻りたかったんだ。だってすごく充実してて達成感があったから。

不自由な時間は楽だ。なぜならそのときは没頭できるしなにも考えなくていい。ここでいう何も考えなくていい、はなにかを疑う必要がないということだ。目の前のことをクリアすることに夢中になれるし、時間が経てば終わる。考えなくてもいい時間がなんて楽なんだろうと思ってしまった。自由な時間を持て余した今のわたしにとって、この考えにいきつくということは"""バカ"""なんだなということを明確にした。

2年間、毎日毎日考えた。どうしたら成長できるか、なにをしたらおもしろいか、次になにをするべきか、空回りする思考ばかり追いかけて、行き着いた先は考えないことがいかに楽かということ

考えると疲れる
考えると行動できなくなる
考えると怖くなる
それでいっぱいいっぱいだ。
だから、時間とお金があってもやりたいことなんて私は浮かばなかったし、時間があるからこそ考える時間が増えて、余計な不安や怖さが頭をしめて、なにもできなかった。

遊べる人はすごい。この人生をどう遊んでいくか、という使命をちゃんと頭を使って遊べている人は本当にすごい。私は不自由の中の自由を遊ぶ方が楽しかったかもしれない。ルールと規則がある中でいかに自分の楽しいを見つけて遊ぶかが楽しかったかもしれない。完全なる自由を与えられたら、なにもできなかった、それくらい未熟で遊び下手で不十分な1人の人間だっだんだ。例えるとWiiやプレステを作る側の柔軟さや発想はなく、ドラクエやポケモンなどの与えられたゲームで自分を達成させていくことが楽しかった。

気狂いなことができるほどの柔軟な心と頭を持っていないんだからこれ以上自由な時間があっても持て余すだけ。だったら不自由な自分に身を置くことで楽になればいいんじゃないか。不自由から自由と新しいアイデアがでてきたように。

ユーチュバーや夢を追ってがんばってる若者たちみたいに、わたしは狂うように追いかける何かはないんだ。だから今の私には自由とか時間とかいらないし、なんでもいいから没頭させてくれって思ってる。必然的に考えなくてもいい時間を。

自由がほしい、会社をやめて南国でなにもせず暮らしたい、そう思っている人は一回ほんとうにすべてを捨てて自由になるとよい。数か月もすると不自由であること、会社や社会の奴隷であることがいかに楽かを思い知ることになるから。考えないことがいかに楽であるかを知ることになるし、それが普通である体になってしまっているんだ。自由に暮らせれていいね~って感じる人ほど頭を使って自分のアンサーを出しながら生きているんだ。自分は会社でこんなにがんばって必死に働いているのに不幸だ!って思う人は、それがいかに楽の中で起こる揉めあいかということを知らない。自分の頭を使わず、考えず、指示されて動いて月20万円。そんな楽な生き様はないよ。

私はちがう!って信じこんでたYURRYだって縛られるほうが楽って思ったし、好きな時間に好きなだけっていう働き方もまったくできんかった。だってめんどくさいもん。だから何か縛られながらそこで結果をだして達成感を味わいつつそれ以外の時間で発見と刺激を追い求める生活を再びトライしていくのであります。

なんでもありな時代にキミはどうして会社に就職したか説明できる?
私は社会のルールの中である程度縛られながら結果を出すことに達成感と成長を感じ、それ以外の時間で発見と刺激を模索することがいちばん気持ちいいからかなあ。
これを気づくのに2年かかった。まだ完璧な答えじゃなくてもいい。自由も不自由も経験したから分かった答えがこれだから。キミも自分のアンサーを出しながら選択していってね



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