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魂のないフィクションはゴミ

又吉直樹の「人間」を読みました。

あらすじとしては、38歳の男が、芸大時代に住んでいたシェアハウスの友人から1通のメールをもらう。そこから当時のことを思い出し、男の創作活動や自分自身、当時の知人たちに対する思考が巡っていきます。
前半:学生時代の回想、中盤:影島という芸人が自信を批判するエッセイストに対して書いた反論文、そして影島との対話、後半:沖縄での親族との時間と、大まかに3つの場面です。3つとも流れる空気が全然違って驚きます。

久しぶりに小説を読むことに没頭し、読んでる数日間目がギンギンでした。小説の影響で、数日間頭の中の思考が大阪南のほうの関西弁になってました。

小説の中に、影島という名前の芸人が登場します。彼は数年前に小説を書いて芥川賞を受賞しました。そんな彼について、影島は芸人であることを放棄したのか?というような批判エッセイを書いたエッセイストがいて、そいつに対して影島は反論文を送ります。
その反論文を読んだ主人公永山は、影島がうざいやつをぼこぼこにしてくれる爽快感と、自分も同じことを言われているような複雑な感情を覚えます。まさに。私がこの小説を読んで受けた印象はそれです。爽快感と感動と同時に自分も殴られるような経験。

批評の必要性、平凡であることの罪の意識、想像力とやさしさ、肩書の必要性、言説の矛盾による思考の手がかり、、考えなきゃいけないことをたくさん詰め込まれて、わたしはパンクしそうだ

人物の対話、ワードチョイス、文章のキレ、キャラ設定(設定しているという感じはないけど)、著者の気合、どれをとっても完璧にお気に入りの小説でした。
又吉のほかの作品でもそうだけど、とにかく彼の人生に対するストイックさみたいなものと、人間への優しさが、同時に文章から伝わってきて、対立しそうな二つの要素をここまでうまく並走させる器用さに感動する。でもこれはきっと生まれつきの才能とかではなくて、繊細な感覚で社会を生きる中で獲得してきたものなんだろうな、とも感じる。それがわたしが又吉にここまでひかれる理由かもしれません。なんか、又吉とか呼び捨てにして申し訳なくなってきたけど、まあいいや。

小説って、語り手の主観を軸に読者の頭の中に世界が形成されていくと思うんですけど、「人間」の中では、たまに、語り手の中での世界がぶれます。記憶があいまいだったり、所謂客観的事実とは異なる認識を持っていたり、世界の軸がぶれるその瞬間が、巧妙で、でもテクニックという感じではなく、本当のことを書いたらたまたまそうなっただけ、という感じが、痺れる…。

あまり作品自体と著者の人格を結び付けて考えるのはよくないのかもしれないけど、わたしは又吉直樹という人間を意識せずに読むことができなかった。それは又吉っぽい人が出てくるのもそうだけど、又吉じゃなきゃ書けない感が強かったんです。本当に失礼な言い方ですが、この本私でもかけそうだな、と、(実際書けるか否かは置いておいて)思う小説って割とある気がしますが、これは絶対に書けない。一回読んでもかけない。

そしてわたしの中で、やっぱり魂のあるフィクションは最高だな、という思いが強くなった。本も映画もアートもそうだけど、流行ってるからとか、売れそうだからとか、そういう意図と関係なく、とにかく作りたいとか、作らないと生きていられないとかそんな背景で作られた作品は美しい。
魂があれば絶対にハマるかといわれるとそれは必ずしもそうではなくって、でも魂がないと絶対にハマらない。3秒後に忘れる。もちろん魂のないフィクションがあったっていいし、実際にあるんですけど、わたしの入れ物の中ではそれはゴミです。



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