「がんばれ」が自分も他人も追い詰める時代。必要なメンタルは「樫の木」ではなく「柳の木」
「頑張れ」
「負けないで」
「諦めなければ夢はかなう」
「不退転の決意で臨む所存です」
「絶対に負けられない戦いがそこにはある」
日本にはこの他にも、数々の励ましの言葉や、己を鼓舞する表現がある。
「がんばれ」に至っては、もはや会話の最後の決まり文句としても浸透しているほどだ。
いずれにも通底しているのは「強くあれ」というメッセージであり、ここには昔からの日本人の精神性が強く表れていると思う。たとえるなら、強く堅い「樫の木」。
しかし、現代ではこういったメンタリティはかえって不都合も生んでいるのではないだろうか。
励まし言葉が自分も他人も追い詰める
これらの表現は、勇ましさを感じさせる一方で、行動や挑戦につきものの逃げや負け、失敗が認められなさそうな危うさがある。
励ましや鼓舞の言葉が真剣な思いから放たれたものであればあるほど、それに比例して強い緊張感や重圧を突きつけてしまう。
“Take it easy(気楽にいきなよ)”と言葉をかける国があるのとは対照的であり、ところ変わればずいぶん文化が異なるものだなと思う。
もちろん、日本ならではの励まし表現が人を奮起させ、大きな力となってきた事実の積み重ねがあるからこそ、そういう表現が定着したのだろう。
多くの人がそういった言葉を誰かにかけられ、あるいは自分で自分にかけたことで、絶望的な状況を乗り越え、勝利や成功を収めてきたはずだ。
だからこういった日本的な激励表現が決してダメだとは思わないし、大きな価値があるのは間違いない。
いまは昔の社会とはまったくの別モノ
ただ、これからの日本社会は経済のパイが広がらない以上、努力したところで配分を得られる可能性は以前より低くなっていくし、変化のスピードが加速するから予測可能性が下がり、常にうまくやり続けるというのはますます困難になっていく。
いや、すでにそうなっている。
こういった状況を無視して「ガンバリズム」を自分や他人に強要したところで、当人にとっては辛いだけだ。
ただでさえ現代は、目指すべき明確なロールモデルとなる人物がいなくなったり、社会の先行きが読めないから、どう生きていけばいいのか迷うしストレスが多い時代だ。
どこを目指すしていいのかわからない、あるいは本当にそこを目指していていいのか定かでない時代においては、「頑張れ」や「負けないで」、「忍耐」、「覚悟」といった言葉は、場合によっては人を追い詰め、苦しめかねない。
本人としても、こういう言葉によって自分自身に「強くあらねば」と呪いをかけてしまうことで、目的地にたどりつけなかったときに心が死んでしまうおそれがある。
先行きが読めない時代のメンタルとは
だからこれからの時代において必要なのは、堅く強いが限界を超えるとポキっと折れてしまう「樫の木」のようなメンタルではない。
失敗や逃げ、負けはどうせ経験するものとして折り込み、深刻にならずに受け流しながら、またすぐ元の態勢にもどって挑戦していくという、柳の木のようなメンタルではないだろうか。
◎失敗したことがある?
→ うん、じゃあそこからの学びを生かしてまた挑戦しよう。
◎逃げたことがある?
→ うん、でも今は以前の自分とは違うから大丈夫。
◎負けたことがある?
→ うん、自分は10戦10勝と言ってるヤツなんて本当の挑戦をしてないよね。
そうやって、傷ついたり転んだり倒れたりしても、何度でも軽やかに立ち上がるんだ。
「逃げるな、負けるな、失敗するな」では気が重くなるし、変化の激しい時代では意外とあっけなく折れてしまう。
だからこれからは「柳の木」のようにしなやかに受け流しながらやっていこう。
「柳の木」こそ、現代の強メンタルだ。
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