福島のグリーン水素への飛躍:希望とリスク
時は2020年3月。大勢の聴衆が集まり、カメラが回る中、故安倍晋三首相は水素で駆動する新型トヨタMIRAIから降り立った。そして、彼はすぐさま壇上へと向かった。
「再生可能エネルギーから水素を生み出す、世界最大の施設がいよいよ稼働します。」と彼は語った。この施設では、日本の燃料電池車の半分以上を1年間駆動するのに十分な200トンのカーボンフリー水素が製造されるのだ。
その前年、安倍元首相はスイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムに出席し、日本は2050年までに水素の製造コストを少なくとも90%削減するという目標を発表した。多くの地域で液化天然ガス(LNG)よりも割安にする目標だ。
そして安倍元首相は、「その壮大なチャレンジの舞台は...」と壇上から聴衆に語りかけ、「この福島です。」と強く主張したのだ。
今や福島と言えば、地震、津波、原発事故の三重苦を思い浮かべるかもしれない。また、ここ数週間は、東京電力が(国際原子力機関(IAEA)や広範な科学コミュニティによる大規模な審査と承認を経て)海洋放出を開始したALPS処理水の放出元としても注目を集めている。
だが、安倍元首相が壇上に立った時、このような話題には一切触れなかった。むしろ、福島が再エネの先駆者として復活したことを祝ったのだ。さらに言えば、彼はグリーン水素のハブとしての福島の未来を鼓舞していた。
また、この演説は、福島県浪江町にある福島水素エネルギー研究フィールド、略してFH2Rの開所式の目玉だった。
FH2Rは、日本においてグリーン水素(再エネから作られる水素)を国産化する上で極めて重要な役割を担う。もしかすると唯一の役割かもしれない。日本は既に、世界中に水素サプライチェーンを構築するために歩み進めている。しかし残念なことに、その大半はクリーンなエネルギー源によるものではない。FH2Rは、日本の野心的かつ欠陥のある水素戦略における唯一の希望なのかもしれない。
ちなみに、僕のSubstackでこの記事を英語でご覧になれます。あと、Linkedinやってる方、英語でニュースレターも出してます。
福島水素エネルギー研究フィールド
浪江町は福島第一原子力発電所からわずか4kmしか離れていない場所に位置している。東日本大震災の津波、そして浪江町が受けた被害は読者の皆さんもご存じかもしれない。21,400人の町民は町から避難を余儀なくされ、結果、避難者は全国各地に流れた。そのうち約1600人しか町に帰還していないのが現状だ。
しかしこの10年、福島は再エネやその他の技術を発展させることで、困難をチャンスへと変えてきた。こうした福島の復興は、英語圏からも大きな注目を集めている。ジャーナリストのフランチェスコ・バセッティ氏は先日、福島がいかに再エネの先駆者として三度の災難から復活したかについて記事を書いた。そこには、復興の一環としてメガソーラー発電所の建設に取り組む福島の姿勢が見事に記録されている。FH2Rはこの豊富な再エネの生産能力の上に成り立っているのだ。
そして2016年、大手企業3社が手を結び、FH2Rを発表した。その3社とは、東芝、岩谷産業、東北電力であり、加えて政府が支援する新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が2018年7月に建設を開始した。それから2020年3月までに、約205億円の莫大な資金を投じてプロジェクトは完了したのだ。安倍元首相が青いトヨタMIRAIで開所式に駆けつけたのはその時である。
2020年のプロジェクト完了は象徴的な年だった。ちょうど東京オリンピックが開催される年だったからだ。日本は、FH2Rの水素を使ってオリンピックの聖火🔥を灯し、選手を乗せる車両に電力を供給し、オリンピック選手村で使用する電力を発電することで、世界を魅了しようとしていたのだ。コロナ禍により計画は頓挫したものの、2021年夏にこの計画はついに実現した。
当時、これらの企業および政府は、FH2Rが世界で最大の水素製造施設であると誇示していた。18万平方メートルにおよぶ敷地に建設された20MWの太陽電池アレイと、10MWの電解槽に電力を供給する系統電力を使って、FH2Rは毎時1,200立方メートル(Nm3)の水素を製造できると開発者たちは述べている。また、中国では今年、260MWの電解槽が稼働を始めるため、FH2Rはもはや世界のトップを行く存在ではない。それでも、FH2Rが大規模な太陽光およびグリーン水素製造の取り組みであることに間違いないだろう。
浪江町はこのプロジェクトを歓迎し、水素社会の夢を抱いている。交通、住宅、発電、工業の各分野で水素を使用することに取り組んでいる。またその一環として、FH2Rで製造された水素を使用する沿道の燃料電池ステーションも含まれているようだ。
一つ指摘しておきたいのが、これだけ大々的に取り上げられているものの、FH2Rのグリーン水素はまだ商用化されていないという点だ。政府と民間企業は製造コストの低減に取り組んでおり、2026年の商業化を目指している段階にあるのだ。
日本の水素戦略
この小さな町の大きなプロジェクトは、日本の水素戦略にとって極めて重要な役割を担っている。日本では1970年代から水素の研究開発が進められてきた。しかし過去10年間で、水素に対する注目度はかつてないほど高まっている。新たな展開は、クリーンエネルギー転換の重要な役割として、また国家レベルの産業政策の中核として、水素に焦点が当てられていることだ。
そして、経済産業省は2014年6月、水素・燃料電池戦略ロードマップを発表した。これは、福島第一原子力発電所の事故により、国内の原子力発電が停止を強いられてから3年後のことである。
さらに2017年、政府は包括的な水素基本戦略を打ち出した。今では、全世界で合わせて41の政府が水素戦略を策定している。日本はその先駆者である。同戦略は2020年、2030年、2050年の定量的目標を定めた。これは極めて前向きな産業戦略であったと言っても過言ではない。まさに「水素社会」の実現に向けた政府の野心表明だったのだ。
そして岸田内閣は今年6月上旬、2017年戦略の改訂版を発表した。一言で言えば、この改訂された戦略は、水素の使用、製造、コストについて野心的な目標を掲げているものだ:
使用: 水素(および水素の貯蔵と輸送を容易にする水素誘導体であるアンモニア)の消費量は、2030年までに年間約300万トン、2040年までに年間約1200万トン、2050年までに年間約2000万トンとなる。
製造: 2030年までに、日本企業の合計電解キャパシティは15GWに達する予定である。
コスト: 水素の供給コストを、現在の100円/Nm3から2030年までに30円/Nm3、2050年までに20円/Nm3に引き下げる (または、それぞれ334円/kgと222円/kg)。最終的な目標は、水素の価格をLNGと競争力のあるものにすることである。
次々と打ち出される水素イニシアチブを通じて、政府省庁と民間企業が一体となり、日本の「水素社会」の実現に向け国内外で水素サプライチェーンの確立を目指しているようだ。
FH2Rはこの野心的な計画の重要な鍵を握っていると言えるだろう。FH2Rは、日本で数少ないグリーン水素生産プロジェクトの一つである(もう一つは山梨県と群馬県の共同プロジェクトで、兵庫県と川崎市にもプロジェクトが計画されている)。また、経産省は水素の研究開発と輸送を促進するために、来年度予算として約86億円を政府に要求しており、FH2Rは国内水素ハブ構想の要となっている。
水素導入に対する慎重な楽観論
水素が脱炭素社会に不可欠な要素であることは間違いない。
IEAの推定では、2050年までにカーボンニュートラルを実現するためには、世界はそれまでに5億3,000万トンの水素を使用せねばならない。これは2020年からの6倍増となる。その需要のうちの60%は再エネから製造された水素で、残りは炭素を回収したLNG由来の水素で満たされるはずだ。また、脱炭素化を達成した世界においては、水素は電池が(未だに)対応できない分野や、太陽光発電や風力タービンが直接対応できない分野での排出削減に使われることになるだろう。つまり、航船、航空、長距離輸送、産業部門といった分野だ。気候変動に関する専門用語では、これらの分野を「排出削減困難」部門と呼ぶことが多い。
ここ5年間、世界中で水素戦略が続出することは、歴史上で最も目覚ましい産業政策の波の一つである。僕はこれを慎重な楽観論で捉えている。特に日本の戦略はそうである。
日本が非化石燃料の製造に産業力を発揮していることは、大いに喜ばしい。しかし、官僚は気候危機を軽視化し、規制の虜となり、最善の策を練り損ねた。
官僚が策定した水素戦略は、需要と供給の両方で包括的なアプローチを取っている。水素は、発電、軽・重輸送、重工業、化学、住宅用燃料電池に活用されるものと想定されているようだ。また、炭素回収の有無に関わらず、再エネと化石燃料の両方を使って水素を製造することを目指している点も注目すべきである。
だが大まかに言えば、これには2つの根本的な問題がある。
まず一つ目の問題は、現実上すべてがそうであるように、トレードオフが常に付きまとうということだ。深刻で取り返しのつかないトレードオフになる可能性もあるだろう。あらゆる手段を講じるというアプローチは、机上では一見賢明に聞こえる。だが、排出削減が困難な分野以外では、脱炭素化の選択肢として電化の方が優れていることに疑問の余地はない。発電、旅客輸送、そして家庭部門において、より効率的で低コストな脱炭素化の方法は、太陽光、風力、電池、ヒートポンプ、電気自動車である。このような日本の戦略は、莫大な資本、知識、専門的なノウハウ、物理的な材料、さらには関係企業の将来の競争力までも無駄にしてしまうリスクがあるのだ。
第2の問題は、日本が構築を目指している水素サプライチェーンが温室効果ガス削減につながる可能性が低いということだ。生産量の増加の大半は、国内外のLNGおよび石炭に依存することになるだろう。もちろん、水素基本戦略では、政府はこうした施設からの排出量を抑えるために、CCS(炭素回収および貯蔵)の開発を支援すると入念に指摘している。だが、自然エネルギー財団が詳しく指摘しているように、この解決策による排出削減の可能性は確実なものとは言い難い。また、独立機関による調査では、「ブルー」水素(炭素を回収した天然ガスから作られる)の排出量は、熱源としてLNGや石炭を燃やすよりも20%以上多くなる可能性が高いことが明らかになっている。
そしてここでもまた、トレードオフの問題がある。化石燃料を起源とするサプライチェーンに数千億円も注ぎ込んで、再エネへの転換を期待することはできないだろう。そこにはロックインの影響があるのだ。このような問題は日本に限ったことではない。ウェンティン・チェン氏とソラ・リー氏が明らかにしているように、多くの国の水素戦略は「規模が先で、クリーン化は後」というアプローチを取っているのが現状だ。これが、僕の楽観論が慎重を期している理由である。
分岐点に立つFH2R
私はFH2Rに前向きだが、慎重でもある。日本の水素戦略では、再エネに基づいた国内水素サプライチェーンの必要性を提唱している。現在、それはFH2Rを唯一指す。
アルカリ電解槽の技術開発を担当する化学メーカーの旭化成は、現在10MWの電解槽を100MWのシステムにまで発展させることを目指している。実に朗報だ。
一方で、経産省によるFH2Rの拡張計画もあり、これはほとんど乗用車用の水素利用を拡大するためのものだ。また、NEDOは、その一部として、旭化成とJGCと提携してFH2Rにグリーンケミカルプラントを建設し、2031年までにカーボンフリーの化学物質、中でもアンモニアを製造することを目指している。アンモニアの重要な供給先の一つは発電部門とされ、政府は排出量削減を見込んでアンモニアを化石燃料と混焼することを望んでいる。この戦略は近年国際的な批判をずいぶん浴びているものだ。
僕は福島を日本の水素社会の中心地にすると宣言した故安倍首相の言葉を疑わない。何しろ、日本における経済成長の歴史は、官民連携で産業政策の成功によって成り立ったと同様なのだから。だが僕は、水素基本戦略が想定するほどの包括的な水素の活用は賢明だと思わないし、水素社会を築くことによって、日本や水素製造を委託される国々が脱炭素を達成できるとも思っていない。
それでは最後に、浪江町のゆるキャラの「うけどん」に、この記事を読んでいただいた読者の皆様に感謝の気持ちを伝えてもらうとしよう。