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批評 映画『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)

『君たちはどう生きるか』(2023)
監督・脚本・原作:宮崎駿
制作:スタジオジブリ

 夜中の火災から映画は始まる。周囲の混乱と熱気の中、母親の元へ急ぐ幼い少年の姿がある。物語の主人公である眞人(まひと)だ。揺れる群衆を一人称視点で描写する試みはこれまでの作品にない清新な表現だった。ただ、その少し前の階段を駆け上りて駆け下る描写にわずかにひっかかるものを感じる。違和感が残ったまま話が進むうちに、これはちょっとゆるい作品なんだと知るようになる。

 ストーリーはあってなきもの。一編の夢だ。強いて言うなら『崖の上のポニョ』に近い作品になる。直近の『風立ちぬ』で見せた――男が部屋に入り上着を脱いで壁に掛ける、というたったそれだけの仕草をゆったりと尺を使い贅沢に描く――うっとりとする画作りはなされていない。

 もちろん出血する場面や船出の場面など、いい場面も沢山ある。総じて鳥が登場するシーンは素晴らしく、アオサギが喋りだす場面、ペリカンに包まれる場面、インコが押し寄せる場面は力強い。一方、「流して」描かれたなと思う場面もあり両者が交互に現れる。

 作中では、現実世界と塔の中の世界があり、主人公は人語を話すアオサギに唆され継母であり叔母でもあるナツコを探しに塔へ赴く。道中、模範的な軍国少年から徐々に余計なものが剥がれ落ちていく。帽子がどこかへ行き、シャツが無くなりランニング姿になる。残った傷口の絆創膏も剥がれ落ちる、眞人は塔を進むほど子供に戻ってゆく。一方で、あれほど映画にこだわっていた宮崎駿にしては画角や細かい描写が妙にあっさりとしている。

アニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだと。風や人の動きや色々な表情や眼差し、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。

2013年9月6日の引退会見より

 個人的な体験だけど、10年ほど前こんな出来事があった。夕方に、商店街の携帯ショップの外でぼんやり立っていた。ちょうど夏祭りの最中で幼稚園くらいの子供を連れた二組の親子が、浴衣姿で左右から歩いてきた。友達なのだろう、左の女の子が右の子を見つけると笑顔で駆けだす。ぴょん、ぴょん、ぱっ、というリズムでジャンプし、私のすぐ前に着地した。完全に宮崎駿の動きだった。全身の動き自体から楽しさや喜びが溢れていた。歓声を挙げて合流した二組の親子の背を目で送りながら、私は「駿じゃん……」とただ驚いた。宮崎駿の解像度で世界を見るとはこういうことか、とその時初めて知った。まぎれもなく「世界の秘密」がそこに見えた。

 『君たちはどう生きるか』には何かが欠けているのではないだろうか? ヒミとの食事のシーンでその感覚がはっきり認識できた。少女がパンを切り分厚くバタとジャムを塗り、眞人は目を輝かせかぶりつく。屋敷での質素な食事以外で唯一眞人がものを食べる印象的な場面だ。その直前にパンを切り分ける短いカットが挿入されている。「焼き立て」と説明されたパンが中央に鎮座しているのだが、それがなんとも愛想なくあっさりしているのだ。宮崎駿のパンはもっと焼き立てで、温かく、いい匂いがしなかっただろうか? 登場人物が画面左から右に歩くという当たり前のワンカット。前はもっと滑らかに過剰なくらい生々しく歩いていなかっただろうか?  飛び石の上を4人のキャラクターが飛んで渡っていく。昔はもっとキャラクターの特徴が表現されていなかっただろうか?  うまく飛べない状態のアオサギが必死に空を移動するとしたら、もっとうねるような軌跡で描くのではないか?

 もちろん制作スタッフが悪い訳では無い。これが別の絵柄の作品なら一切気にならなかっただろう。ただ宮崎駿の絵柄で宮崎駿の作品で描かれた時、どうしても本当ならこうであったろうという幻影が重なる。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、今作では以前のように宮崎が全ての動画のチェックを行わないという制作体制をとったとされる。異様な熱量で細部にこだわってきた作家の方針としては意外に思えた。

 しかし、そんなわだかまりも塔の最深部にいる老いた大叔父様が「時間がないんだ!」と叫ぶ場面をみてすべてが腑に落ちた。

1日12時間机に向かっても耐えられた状態ではなくなりましたから。実際、机に向かっている時間はもう7時間が限度だと思うんですね。あとは休んでるかおしゃべりしてるか飯を食ってるかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとかは僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計なことで、机の上に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間とれるかっていう。

2013年9月6日の引退会見より

 「時間がないんだ!」の声がする。あなたがこの欠けた部分を埋めていたのだ。ふと見上げると日は暮れかけているけど道はまだ遠い。先を急がなければ。また「時間がないんだ!」と叫ぶ声が聞こえる。悔しいだろう。もっと時間さえあれば。でも、いつだって時間はなかった。ギリギリの妥協を重ねながら、限界まで細部に手を入れ続ける粘り強さがあなたの仕事だったのだ。

 一度そのことが分かってしまうと良い悪いでは評価できない。見え隠れする欠損を通して過去の作品と確かに結びついている。白鳥の歌? とんでもない。そんなことは30年後の人たちが好きに論じていればいい。現在進行形の物語なのだ。他の時代の人が望んでも、今でしか味わうことができないものがここにある。それは幸運なことだ。

 『君たちはどう生きるか』を観に行くべきだ。宮崎駿という人物が同じ時代に生き、彼が同じ時代に作品を作っていたことを覚えていくために。彼の焦りや無念、苦さと諦めと、生命力と輝きを見届けるために。


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