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読書メモ 絲山秋子『離陸』


数ページ読むと「これはちゃんとした小説だ」とわかる作品がある。『離陸』はそういう本だ。書き出しは“ぼく”の回想から始まる。彼は群馬の山深いダムのほとりから少しずつ色々な場所に出ていく。このままどこまでも行けそうだ。たとえばアレクサンドリアだって。

けれど物語中盤、異国で震災のニュースを聞くあたりで突然潮目が変わる。離陸、という言葉に沿うなら彼は離陸できずに地に残る。水の番人サトーサトーの魂は飛び出つことができない。現実とのつながりを確かめ、踵を返す。どこか海外で少年と暮らすことだってありえたのに(『アレクサンドリア・カルテット』のように!)ごく常識的な対応に収束する。

主人公は異様だ。本人は平凡だと語るが学歴、就職、語学力は相当なもので何よりもコミュニケーション能力は底堅く安定している。円満な家族関係、友人関係、職場関係、行きつけの店だってすぐに作る。でも彼はどんどん孤立へと突き進んでゆく。この男はもしかして大昔の神々と変な約束でも交わしたのだろうか。戻ることができる場所はいくらでもあるのに、どこにも帰ろうとしない。彼は決して感情が欠落しているわけではなく、正真正銘の愛情や友情、悲しみや喜びを感じる重みのある肉体を持った人間だ。

大きな悲しみも、余熱のような再会も波風を立てるが、過ぎ去った後には以前より一層仙人のようになった彼が残される。磁力を帯びた長い針がすっとひとつの方角を示すように、彼は彼のことを知る人がいない土地へ向かう。

読み終わると深い満足感と余韻があった。佐藤弘がどこかに実在している温かさと自分が同じように順番を待つ列に並んでいるのだというかすかな実感があった。最初に感じた通りちゃんとした小説だった。でも、ちゃんとした小説とはなんだろうか。ストーリーやテーマや設定が問題では無いことは確かだ。文体とも違う。作者の考えや知識でもない。1文1文、1ページ1ページを積み上げていった上に立ち上がるものがある。ちゃんとした小説というのは、それを通して何かを伝えることができる作品のことだ。そして、不思議なことにそういう作品は最初の数ページを読めばわかる。この本のように。

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