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短編小説『広島 騎乗位』(2/2)

   私たちはジュースを手に持ち、ロータリーのベンチに並んで座った。
「あなたはいまいくつですか」
「20歳です」
「若いですね。大学生ですか」
「はい、東京の大学に通っています」
「そうすると、東京から来たんですね」
「今朝、いやもう昨日の朝ですね、始発電車に乗って、鈍行でここまで来ました」
「鈍行で東京から。それはすごい。一日電車に乗って疲れたでしょう」
 口調に淀みがなく、台詞を諳んじるように滑らかに話す。慣れた調子だった。元来口下手な私も調子に乗せられ、訊かれるがままに答えていく。この近くでスナックをやっていると言い、その語り口からなるほどと納得させられる。店を閉めた後にいつもこの辺りを散歩しているらしい。
「ところで君は何か運動をしていたのですか」
 丁寧な言葉遣いはそのままだったが、「あなた」から「君」に人称がすり替わったことに気づく。私は思春期に対人関係で躓いたため、人が踏み込む瞬間を感じ分ける癖がついている。おじさんの方を横目で見ると、少し前屈みになり、顔を突き出す姿勢で私の上半身を眺めている。
「いい体してますね」
 そう言ってにじり寄り、陳列されたガラスの工芸品に触れるように、私の胸にそっと左手を置いた。それまでは一定の調子を保っていた声にほんの少し上ずりが混じる。
 快でもなく、不快でもない。私の意識はただ胸の表面を緩慢に移動する手の動きに凝っている。警戒心は無かった。警戒するには私は無知で世間知らずだった。ただ、経験したことのない不思議な感覚、不思議な状況に幾分戸惑っていた。
「背中も大きい」
 腕を私の背中に回すと、汗で張り付いたシャツの上から、首筋、そして肩甲骨のあたりをなぞった。私は何とも居心地が悪かった。どう振る舞えば良いか分からず、視線を膝の上に落としたままじっとしていた。おじさんの体、あるいは着ているポロシャツからだろうか、仄かに線香のような匂いがする。
「この後、どうしましょうか」
 何らかの契りを交わしたものの言い方だった。私は異議申し立てはしなかった。明日のことを考えれば、地下の連絡通路に戻って横になった方が良さそうだったが、このまま硬いコンクリートに横になったところで寝付ける気はしなかった。明け方までやり過ごせば、九州へ向かう列車の中で仮眠は取れる。何より、私はこの後の展開に少し好奇の念を抱き始めている。
「良かったら、サウナでもどうですか。さっぱりしますよ」
「サウナですか」
 私はサウナに関する一切の経験を持っていなかった。スーパー銭湯のようなものを想像する。この想像は風呂嫌いの私を魅了するものではなかった。水を差すようで躊躇われたが素直に断りの言葉を伝えた。
「そうですか……」
 おじさんは一瞬驚きの表情を浮かべ、黙り込んだ。それまで受け答えに従順だった私が断るのを想定していなかったのかもしれない。幾分申し訳ない心持になった。しかし、訂正はしなかった。口を噤むおじさんを横目に、私は中身が残り少ない缶の縁を小刻みに口元に運んで、気まずい沈黙の時間を埋める。
「広島市内を案内するので、散歩でも、どうですか」
 口調の軽快さに変わりは無かった。ただ、心無しか話すテンポが遅く、私の反応を窺う節があった。切実なものを感じ取った私はいいですよと快諾した。

 灯りの落ちたアーケード街を歩いていると、時折飲んだ帰りだろうか、燥ぎを露わにした人々とすれ違い、その一瞬だけ静寂がふっと途絶える。対称的に私は終始黙り込んでいた。考えに耽っていたわけではない。視界に映る風景をただ漫然と眺めていた。前日早朝からの不眠と疲れで頭の働きは鈍く、思考は半ばアイドリングの状態にあった。気を遣ったのか、おじさんが問わず語りに自分の身の上を話し始めた。
「ぼくはね、隣の街の出身でね。遊郭って分かりますか」
「分かります」
「そこの倅だったんです。まだ戦争前でね、それなりに儲けていたみたいです。家が立派だったから。家には書生さんが何人かいましてね、みんな広島大学の学生さんだったのかな、ちょうど君ぐらいでね」
 最後の「ちょうど君ぐらいでね」を、おじさんは秘密を打ち明けるように小声で話した。私はそれに対して特に反応を示さず、ただ頷く。
「ぼくはいつも彼らに遊んでもらっていた。その中でも、ぼくは一人の書生さんが大好きでね。彼の背中が大きかったんです。ぼくが背中に抱きついても覆えないぐらいの大きさだった。その上にね、お馬さんごっこと言っていいのかな、乗ってね、部屋の中をぐるぐると回って遊んでいました。それが大好きでね。大きな背中だったんですよ。その大きな背中に乗ると幸せな気持ちになってね。全身が温かくなると言ったら良いのかな。今でもね、大きな背中の男の人を見るとその背中に乗りたくなるんだ」
 このおじさんは恐らく還暦を過ぎている。若い男の背中に乗ってお馬さんごっこに興じる姿はいかにも滑稽で、グロテスクだった。本気か否かその表情に答えを求めると、口元は笑みを浮かべてはいるが、据わった眼は冗談を否定する。
「あとで、君の背中に乗らせてもらえないかな」
 奇妙な提案だった。人から背中に乗せて欲しいと頼まれたのは人生を通じてこの時が初めてだった。経験則が働かず、私は黙り込んだ。おじさんはそれを拒絶と読み取ったのか、間髪入れずに「駄目かな。背中が駄目ならお腹でも構わないよ」と替わりの案を提示する。奇妙な提案に替わりはなかった。むしろ、背中から腹になったことで、これまでの話と辻褄が合わず、私は混乱した。
「わかりました……。上に乗るだけであれば」
 フリーズした脳は安直な回答へ逃避する。

 おじさんに連れられて、広島市民球場、原爆ドームと回り、最後に平和記念公園に到着した。既に夜明けの時間を迎え、園内の木々は差し込む陽光を浴びて白く輝き始めていた。入口を跨ぐと、正面奥に見覚えのあるモニュメントが視界に入る。私はそちらに向かうものと期待したが、おじさんは目もくれず、ずんずんと脇の木立の方へ進んでいった。戸惑いながらその背中を追うと、周囲を木々で囲まれ人目につかぬ場所で立ち止まり、こちらの方へ振り向くと「ここにしましょう」と言った。知らぬ間に市内案内は終了していた、らしい。
 私は指図をされるがまま、恐る恐る地面に仰向けに寝そべった。おじさんは私の腰の傍に膝をつくと、周囲を軽く見回してから私の耳元に口を寄せて「ズボン、脱いでいいかな」と言った。私は反射的に「それは駄目です」と答えた。その時になっても、私はお馬さんごっこの再現だと信じていた。
「それでは失礼するね」
 儀式に取り掛かるように断ると、おじさんは私の腹の上に跨った。ゆっくりと上下に動き始める。徐々に勢い付いていく。激しく、執拗な動きに変わる。私は腹筋に力を入れた。油断するとおじさんの体重で内臓が押し込まれそうになる。首を曲げて表情を窺う。眼を見開き、口を半開きにして恍惚的な面相を浮かべている。蛇に飲み込まれつつあるガマガエルのような顔をしている。下半身に視線を移すと、ズボンのチャックを下ろして緩めてできた隙間に右手を差し込み、自分のものを激しく弄っていた。
 私は思わず吹き出した。おじさんには気取られていない、と思う。今一度、騎乗位に興じるおじさんを見る。おじさんを見上げる自分の姿を意識する。意識は離人的に浮き上がり、おじさんと私が作り出す≪お馬さんごっこ≫の情景を脳内に描写する。それは想像していた通り、滑稽かつグロテスクだった。私は「くくくく」とあぶくのように湧いてくる笑いを必死に堪えている。私はこうなることを期待していた、と思う。
 迫ってくるゴールに向けておじさんは馬上で鞭を打つ騎手のように激しく上下しながら、自分のものを激しく弄っている。それを見上げる私の笑いの衝動も同期していよいよ抑えがたいものに変わっていく。やがて、おじさんがぶるっと痙攣して絶頂を迎えた時、私の笑いは破裂するかと思われた。しかし、そうはならなかった。衝動はその直前で急速に萎み、気持ちは冷めていった。早くこの場から離れたいとさえ思っていた。私の中でこの奇妙な出来事は既に《経験》に折り込まれて、消化されつつあった。もはや最後の射精は予定調和でしかなかった。
 おじさんとは、公園近くの牛丼屋で食事をした後、そのまま店先で別れた。別れ際、「きみとはもうお別れだね」と言って名残惜しそうに私の胸を摩った。私は、服の表面を虫が這っているかのように、その手を煩わしく思いながら、おざなりに「そうですね」と返した。

 その後のことを言えば、鹿児島まで無事に辿り着いたが、台風の直撃でフェリーが出航せず、三日間足止めを食らって、結局沖縄には渡れなかった。そこから、長崎、福岡と寄り道し、東京に戻った。
 今思えば、ジュース一本、牛丼一杯は安かったと後悔している。

(了)

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