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読書記録 - 森沢明夫 「エミリの小さな包丁」

ふと視線を上げると、虚ろなほど青い空が広がっていた。
その空のいちばん遠いところ──見渡す風景の果てからは、ふちを銀色に光らせた入道雲がもこもこと高く盛り上がっていた。
この快速列車のなかにまで、うるさい蟬の声が聞こえてきそうな夏の風景だ。

(第一章 猫になりたい カサゴの味噌汁)

この風景、あなたもきっと好きになる。

夏。 海の見える田舎町で

いきなりの偏見で申し訳ないですが、夏の田舎町を舞台にしたドラマってハズレ無いんですよ。
たとえば『ビーチボーイズ』とか『Swing Girls』とか。
映画なら『真夏の方程式』もあるし、アニメなら『サマーウォーズ』もいい。(どれも古くてスイマセン)
意識の底の方にある日本の原風景というか、ある種懐かしい匂いを感じます。

この小説はそんな偏見バリバリの僕にはどストライクの雰囲気で攻めてくる、夏の田舎町を舞台にしたドラマ。

恋人に振られ、職業もお金も居場所もすべてを失ったエミリに救いの手をさしのべてくれたのは、10年以上連絡を取っていなかった母方の祖父だった。人間の限りない温かさと心の再生を描いた、癒しの物語。

Amazon商品ページより

都会の社会人、疲れたら夏に田舎行きがち。
こんなあるあるが成立しちゃうほど使い古されたシチュエーションではあるけれど、やっぱり好きなんですよねこういうのが。

何気ない日常と手料理の数々

町での生活は規則正しく、ある意味退屈に映るかもしれません。

早朝、犬と散歩に出かけて、近所のおばあさんに挨拶をする。
神社にお参りをして、帰り道で魚をお裾分けしてもらう。
散歩から帰ったら、朝食を作って食べる。
おじいちゃんは工房に籠り、風鈴を作る。
エミリは家事をして、お昼時になったら2人で昼食を作る。
夕方になったら釣りをして食材を確保し、家に帰って魚を捌く。

おじいちゃんにとっては何気ない、普通の生活。だけど、

わたしの人生には、そのふつうさが決定的に足りなかったのかも知れない。だからこそ、わたしは、いま、こんなにも心をぬくぬくさせて、手料理に感動してしまっているのだ。きっと。

(第一章 猫になりたい カサゴの味噌汁)

エミリの心を癒したのは、おじいちゃんが作る魚料理の数々。

さんが焼きをわたしに託したおじいちゃんは、ボウルに残ったなめろうに水をたっぷり加えると、さらに氷を十個ほど投入して、そこに味噌を溶きはじめた。
「それ、何してるの?」
「水なますだよ」
「え……、お刺身に、氷水をかけちゃうわけ?」
「ああ」
「そんなの、あり?」
おじいちゃんは、眉をハの字にして小さく苦笑した。
「船上の漁師が食うメシだ。こういう暑い日にはとくに美味い」

(第二章 ビーチサンダル あじの水なます)

夏の風景描写もすごく素敵だけど、料理の仕込みや食事シーンの描写もかなり細かくて、作ってみたいと思えるものばかり。
こういう生活、いいなぁ……。

夏の終わりに

もちろん料理以外にも、町の人々との交流や淡い恋バナもあったりして、次第にエミリは癒やされていきます。
しかしある事件をきっかけに、再び深く傷ついてしまう心。

「わたし、ここからも、逃げないと駄目かな……」
わたしがいない方が、おじいちゃんも気楽だよね──。本当は、そう訊きたかったのに、ずるいわたしは、つい自分が被害者であるかのような言い方をしてしまった。
そもそも、わたしが加害者で、おじいちゃんが被害者なのに。
「逃げるかどうかは、エミリが決めればいい」
「え……」
「人は、いい気分でいられるなら、どこに居たっていいんだ」

(第五章 失恋ハイタッチ サワラのマーマレード焼き)

夏の終わりに、エミリが選んだ場所とは。

あなたも心が疲れたときは、この本でちょっと一休み、してみませんか?


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