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本物の学びとは?②

 前回の投稿に続き、本物の学び(専門用語では真正な学び: authentic learningという)が人にもたらす効果を記したい。真正な学びについて、詳しくは前回の投稿を読んでほしいが、一言で言うとその道の専門家と類似した本物の学び方である。今回は数学を例にあげる。

 学校での数学と実際の数学の違いを、ジグソーパズルで例えた数学者がいる。学校の数学は絵が描かれ、完成系が示されたジグソーパズルである。ジグソーパズルと言われて、まずイメージするものである。

 対して実際の数学は真っ白で、枠がなく、完成系の絵もないパズルだそうだ。見出し画像のようなパズルである。これを大勢で解くのである。当てはまるかどうか、とにかくやってみて試行錯誤したり、形から推測したりするのだという。思わぬ所で他の人が作っている塊と繋がったり、突然思わぬピースが見つかったりすることもあるらしい。

 真っ白枠なし答えなしのジグソーパズルの方は、絵あり枠あり答えありのパズルより多くの力を必要とされる。そして、その要求される力はこれまで全く鍛えてこなかった力である。実際、この違いに困惑したという研究者は多いそうだ。大学に入ったり、そこでどこかの研究室に入ったりしただけでも、同じような困惑を多くの人が覚えるのではないだろうか。

 手っ取り早く数学の解法や成果を身に着けたいと思うのならば、絵あり枠あり答えありのジグソーパズルを解けばいいだろう。そちらの方が早い。しかし、本当の意味で数学の力を付けたいの願うのならば話は別だ。時間がかかっても真っ白枠なし答えなしのジグソーパズルに挑戦するべきだ。本当の数学者がやるように対話を交えながら行うとなおいいだろう。

 世界からみると遅れをとったが、日本の学校もこれから真っ白枠なし答えなしのジグソーパズルにも取り組むような場所に変わろうとしている。もちろん、そちらの方がいい。学校の勉強と実際の学問のギャップをなくそうということなのだから。これがうまくいけば大学や研究室に入ってから、ようやく本物の学びが始まるなんてことはなくなるだろう。(もちろん絵ありのパズルがなくなるなんてことはないだろう。比重が変わるという話である。)

 しかし、私が落ち着かない気持ちになるのはこの変わろうとしてる動きに鈍感な教師が多いことだ。もちろん、そうした動きに敏感な教師もいるし、子供の学びを記録し、自らの専門性を高めていく中で自然と同じ結論にたどり着いた尊敬すべき偉大な教師もいる。

 逆にこうした事情を分かっていつつも、なかなか踏み出せない教師もいる。本物の学びに理解のない他の教師や保護者の目が、従来の授業スタイルにしばりつけるしがらみとなっている。保護者の気持ちは理解できる。我が子が賢くなる様子が分かりやすいのは絵ありのパズルを解いている方だからだ。さらに言えば、保護者の方は絵ありのパズル教育を受けてきたため、我が子が自分と違う教育を受けている姿を見るのは不安だろう。

 しかし、専門家である教師がそうではない保護者と同じスタンスではいけないのではないだろうか。もちろん、保護者の気持ちを無視して実践しろということではない。しっかりと説明し理解を得るべきである。(私はそれを怠っているため保護者の評判が悪い。)今回の投稿は、保護者の理解も得つつ授業をするべきという自分への戒めでもある。


 以下に、興味の方がある方向けに、先に記した学校教育の動きとは具体的にはどういうことかの一例を記す。

 教師が教育において従う義務のあるもっとも具体的な文書は文科省が出す「指導要領」である。教科書はこれに基づいて作られているが、教科書と同じ授業をする義務はない。この指導要領は一定間隔で改訂され、今回の改訂では「主体的・対話的で深い学び」が大上段に掲げられた。英訳版では「proactive, interactive,and authentic learning」となっている。 この「authentic learning」とは専門用語であり、直訳すると「真正な学び」である。(文科省教科調査官の話では「真正な学び」では日本語として意味が伝わりにくいとして、深い学びに変えたということだった。)当然、中身も真正な学び(本投稿で言う本物の学び)を目指したものになっている。ここまで変革を迫られているにも関わらず鈍感な教師はいる。そうした教師は指導要領や教科書の変わっていない部分を根拠にし、これまでと同じ実践を続ける。もちろん、それが悪いわけではないが、葉を見て幹や根を見ないようなものだ。指導要領に変わっていない部分があるのは当たり前である。学ぶ内容自体に大差はないのだから。大きく変わったのは学び方である。「どのように学ぶか」の踏み込んだ方針は古い指導要領は示されてこなかった。それが示されたのである。調べれば、その根拠もちゃんと出てくる。

 ここまで書いていて気付いたのだが、私は自分の実践の方向性を理解し、正しい視点から意見してくれる人が欲しいのかもしれない。他の教師に対する「何で分からないんだ」という苛立ちは「分かってほしい」の裏返しなのだろう。授業研修は学校全体で行うものだが、私はかなりの異端児で、浮いており、発言力がない。それはそうである。独りよがりな実践で、経験も力も無いのだから。