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学校は何のため?②

前回の続きです。
簡単に前回の内容をまとめます。

教育は、社会としては平和のため個人として自由になるためにあること
平和がくずれるのは、互いの自由がぶつかり合ったときであること
人は自由への欲求が非常に強い。場合によっては平和よりも命よりも自由を求める。
人が自由を求める限り、平和は訪れないのでは・・・?

この問いに一つの答えを出したのが哲学者のヘーゲルでした。
その答えとは、

自由の相互承認

意味は、自分も自由になりたいし、相手も自由になりたい。このことを互いに了解すること。

自由の相互承認(=お互いの自由を認め合うこと)。これは言葉にすると簡単ですが、実際には相当困難なことです。

先日、学校である子が軽いモヒカンのような髪型をして学校に来ました。担任の先生は「似合ってるね~」と言っていました。しかし、ベテランと言われる年代のある先生は眉をひそめていました。

担任の先生はそのベテランの先生に職員室で「本当に似合ってると思ってあれを言ったの?」とつめられていました。

教師としては望ましくない考えかもしれませんが、私は子供がどのような髪型をしてきても指導対象だとは思いません。これは気持ちとしての話なので、そこに論理的な理由はありません。そう思わないから、そう思わないのです。

しかし、このことを自由の相互承認の視点で考えてみると少し説得力をもちます。

つまり、人がどのような髪型をしていようが、それはその人の自由であり、誰の自由を侵害しているわけではないから指導する必要はないということになるでしょう。


しかし、先ほどのベテラン教師のように人の髪型に何かを言いたい人はいます。これは教師に限らずでしょう。髪型以外の例では、私にもそういったところがあります。


人(の髪型)を自分の思い通りにしたい、こういう考えをしがちな人は自由の相互承認の感度が低いと言えるのではないでしょうか。

「あの人の服装がおかしい。まともな恰好をしてほしい。」
「耳に穴を空けるなんて間違っている。そんなことはやめさせたい。」
「あいさつをしてこない人に腹が立つ。あいさつをさせたい。」

これは例ですが、上記の例はどれも原理的には誰かの自由を侵害しているわけではないと思います。それでも、上記のような人の姿を見て、自分の自由が侵害されていると感じる人はいます。

先ほどのベテラン教師もそうなのでしょう。こういった人は、誰かに髪型のことを規定されて育ってきたのだと思います。そして今でも自分で自分を規定しているのです。

(このベテラン教師は以前に、教師のあるべき髪型はこうだというのを言っていました。これはかつて流行った教育技術の法則化運動の中で言われていたことです。)

でも、これはその人が悪いわけではないと思います。自由を押し殺して言われた通りにしてきたから、そう育てられたから、人が自由にしているのを見て腹が立つのです。自分の自由を侵害されているわけではないのに、侵害されているように感じるのです。

(これは自分への言い訳でもあります。私は自由の相互承認の感度がかなり低い人間だと思いますが、それは自分のせいではないと言い訳しているのです。)

髪型は個人の自由だとは思いますが、この場合でも、お互いが思っていることを認め合ってどうするか決めていくことがお互いの自由の相互承認の感度を高めていくことになるのではないでしょうか。

「僕はこの髪型にしたいんだ。」

「私はその髪型は学校にふさわしくないと思う。」

これをちゃんと伝え合い、理解し合い、自由を認め合いつつどうするか決めるのです。


次の例はどうでしょうか。

「使った物を片付けない人が気に入らない。自分で片付けさせたい。」
「あの人の物言いは高圧的だ。柔らかな言い方をしてほしい。」
「あの場所・道具を使いたいのに、別の人が使っている。」

これは微妙なところですね。認められるべき自由が互いにぶつかり合っていると言えるかもしれません。というか、世の中の多くの問題はこうした例ばかりでしょう。

「怒鳴りつけて、脅して片付けさせるか。」
「あの人に発言権を与えない人にしよう。」
「無理やりあの場所・道具を奪い取ってやる。」

これでは一方の自由は満たされますが、他方の自由は損なわれます。そしてこの考え方が広まると本当に強い人だけが自由を得る社会になります。こうした社会の行きつく先は歴史が示してくれていますね。

それぞれの状況に対する絶対の答えはありません。お互いが「相手も○○したいという思いがある」ことを理解してお互いに対話するしかないのです。そうすることが「自由の相互承認」なのです。

「自分も好きに生きたいし、相手も好きに生きたいんだ。」
「その両方を大事にして、生きていきたい。」

この感覚を育てるのが、平和と人格の完成を目指す学校の使命です。


ここで、初めの問いにもう一度答えておきます。学校は何のためにあるのか?

社会としては、自由の相互承認の感度を養う場所
個人としては、自由になるための力を養う場所


ちなみに子供が奇抜な髪型をしてきたときには、世の中にはその髪型を見て嫌な気分になる人がいるということは伝えます。そのことが良い悪いは置いておいて、事実なのですから。髪型のことでデメリットを被る社会であることは知っておいて損はないと思います。

参考文型:教育基本法 
勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方
自由の相互承認(上)(下) (共に苫野一徳 著)