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りりちゃんに学ぶ「キモい」論-快楽から降りられない人達-

はじめに

恋愛感情を利用して複数の男性から多額の金品を騙し取った事件が昨年紙面を賑わせていた。その首謀者である「いただき女子りりちゃん」こと渡辺真衣被告の初公判が先日行われ、懲役9年、罰金800万円の判決が言い渡された。

個人的にこの事件はいつになく関心が高く、当初から非常に興味深く推移を見守り続けてきた。というのも彼女のあまりにも突飛な発言により、逆に普段意識の外にありがちな倫理観とは何かというものを改めて考えてみる良い機会となったからだ。

また、折しもこの事件が起きた昨年はホストクラブによる売掛金問題が表面化し紙面を賑わせていた。彼女もまたホストクラブに入れ込んでいた一人で、彼女がキモいと認識し「おぢ」と呼ぶ男性からだまし取った金品を軒並みホストにつぎ込んでいたようだ。ホストクラブの売掛金の悪質性に対する是非についてはさておき、よくもそこまで一人の男に対し入れ込むことが出来るものだと変な感心をしてしまったものだ。

その一方でSNSを見てみれば、今日も今日とて井戸端会議という名の女性たちによる男性への罵倒の嵐とそれに対する賛同で溢れかえっている。ホストに限らずイケメンに喜色を浮かべる一方、その口でオタク達に対して「キモい」等と悪びれること無く平然と罵声を浴びせかける光景はもはや日常の風景となりつつある。りりちゃんに対しても「キモい」という言葉を軸に彼女を擁護する声も少なくない。

こうした一見矛盾する言動を行う人達の心理とはどの様なものなのか、そうした興味が本記事を書く最初のきっかけだった。ところが彼女たちの心理を考察していくにつれて、この話はもっと広範に社会全体へと繋がり得る根の深い問題なのではないかと思い始めてきた。本稿ではこの問題について「キモい」「ルッキズム」「ホスト狂い」という3つのテーマを軸に論じていきたい。

「キモい」と言う人達の心理

「キモい」とは何か

まずは「キモい」と言う人達の心理について論じていこう。最初に「キモい」という言葉の定義についてだが、実用日本語表現辞典によると「異様で不快な感じがするさま」「見苦しいさま」とある。とりわけネット上では「清潔感」という言葉に集約され、視覚的な見苦しさについて頻繁に取り沙汰されている。この見た目に対する嫌悪感を指して狭義的に「キモい」という言葉を使用している人は多い。

また、見た目に限らず男性の女性に対するセクハラ発言や10代の女性と結婚したハライチのイワイなど、その行為の合法・非合法を問わず「キモい」が浴びせかけられる場面は多岐にわたる。つまり「キモい」とは視覚的要素を含めたあらゆる言動に対する生理的な不快感の表明と言えるだろう。

「キモい」擁護論と倫理観

重要なのは、こうした発言をする人の殆どは「キモい」という発言を悪い事であるとは認識していないということだ。SNSを見ても「本能的に気持ち悪いのだから仕方ない」「キモいと思わせる方が悪い」といった具合に自らの発言を正当化するどころか、逆に「キモい」と言った相手をを責めるような論調すら見受けられる。また、女性の防衛本能と絡めて「キモい」を擁護するような記事もある。

こうした言説に対し「他人を傷つけることを軽々しく言うべきではない」などと糾弾したところで何の意味もない。というのもそれはあくまでも彼らを一般の倫理観に基づく尺度に当てはめているに過ぎないからだ。

我々の多くが悪しき行いと認識する言動について、彼らは悪くない、もっと言えば善き行いと認識しているのだから、個人の思想や多様性どうこう以前に一般とは異なる倫理観を持ち合わせていると考えるべきだろう。

そして事実として彼らが一般とは異なる倫理観を持ち合わせているのであれば、彼らの行動原理を考える際に一般の倫理観という尺度を持ち出すのは不適当だ。彼らには彼らなりの倫理観を持っているという前提のもとに、その尺度から彼らの行動原理を考察しなければならない。次はそうした倫理観が具体的にどのようなものかを考えていこう。

「キモい」が正当性を持つ価値観

「『キモい』という発言が善き行いである価値観(倫理観)」とは一体どういうものだろうか。最初に考察したいのは「キモい」と発言する人達は一般の倫理観を理解しているのか、言い換えると「キモい」という発言が一般の倫理観に照らし合わせると悪であることを理解しているかという問題だ。

「彼らの倫理観に基づく尺度で」と言った矢先にこうした問題を持ち出すのは些か奇妙なことに思えるが、これが「キモい」発言者の行動原理を考える為の第一のステップとなる。

結論から言うと、殆どの人はそうした一般の倫理観を知っている可能性が高いだろう。その理由は彼らの主張の中にある。上でも少し触れたが、「キモい」発言をする彼らの主要な言い分として「キモいものはキモいのだから仕方ない」というものがある。学校教育などでも度々教師に「他人を傷つける様な言葉を軽々しく使ってはいけません」などと咎められる経験があっただろうことは想像に難くない。

それでもなお一般の倫理観よりも自らの不快感の表明が優先されるという価値感が「キモいものはキモいんだから仕方ない」という主張に表れている。つまり彼らの倫理観の違いとは、厳密には倫理観そのものが異なるのではなく善悪の優先順位が一般とは異なると言った方がより適切だろう。

これを基に彼らの価値観を構築してみよう。言うまでもなく「キモい」と不快感を表明する目的は、その発言によって不快感の元となった存在を遠ざけることにある。そしてそれが一般の倫理観に優先するということは、彼等にとって精神的不快感を遠ざけることが何よりも優先されるということになる。言い換えれば自分が心地よいと感じる状態にあることこそが最上の善であり、逆にそれを脅かす=キモい存在は絶対的な悪という訳だ。

このように考えると彼らが「キモい」という言葉を躊躇なく連呼し、それを正当化することにも論理的な説明が付く。つまり彼等にとって精神的安定を乱す「キモい」存在=悪を駆逐することこそが最も「善き行い」であり最優先事項であるという理屈だ。

「自分に不快感をもたらす悪を『キモい』と言って遠ざけることの何が悪いのか」「悪を攻撃するのだからむしろ善いことををしているじゃないか」こうした思考が一般の倫理観に優先される為、彼らの中では「キモい」という言葉を他人を傷つける言葉とは認識しないのである。

一般的にこの様な価値観は独善的とか、ある種のパーソナリティ障害の持ち主として認識されるのかもしれない。しかし前述の通りそれらは一般の倫理観から見た定義である為、ここでは彼らについて単にキモいか否かが一般の倫理観に優先するという意味で精神的快楽主義者という言葉を用いることにする。次の章ではそんな彼ら精神的快楽主義者が持つ別の側面について見ていこう。

精神的快楽主義者とルッキズム

前章では「キモい」と発言する人達の特徴とそれに基づく思考を考察し、何故彼らは「キモい」を躊躇なく連呼することができるのかということについて見てきた。次は彼ら精神的快楽主義者とルッキズムとの関係性について論じていく。

ルッキズムとの親和性

まず「精神的快楽主義者」と「ルッキズム」、この二つの属性を結びつけてイメージする人は多いのではないだろうか。それは単なる印象論に留まらず、実際のところ論理的に考えても精神的快楽主義とルッキズム親和性は非常に高い。

というのも、そもそも論として「キモい」という言葉が狭義的には見た目に対する嫌悪感を指すことからも分かるように、精神的快楽主義においては「キモい」かどうかの判定に占める視覚的情報のウエイトが非常に高いからだ。元は身だしなみの整っていない男性、或いは清潔感の無い男性に対し「キモい」と罵っていた人が、やがて単なる容姿そのものに対し「キモい」と言うようになる可能性が高いことは想像に難くない。

男に「キモい」と言う癖にホスト狂い?

SNS上で「キモい」と言う女性に対してよく見られる批判に「男に『キモい』って言ってる癖にホストにハマってるのかよ」というものがある。男を口汚く罵るその一方でイケメンホストに入れあげる様を揶揄したものだが、この認識は適切ではない。

というのもここまで述べてきた精神的快楽主義とルッキズムの関係性を考えると分かるが、「キモい」とホスト狂いはそれぞれ独立した問題ではないからだ。見た目の優れない人に対し「キモい」と呼ぶのであれば当然その逆もまた存在する訳であり、それがイケメンホストに対する歓心ということだ。

つまるところ両者は別々の問題ではなく同じルッキズムというもののコインの表裏でしかない。「『キモい』と言う癖にホスト狂いなのではなく「『キモい』と言うからこそホスト狂い」なのだ。ネットスラングの一つに「イケメン無罪」という言葉があるが、その逆を考えると「ブサイク死罪」といった所だろう。

「イケメン無罪」という様な言葉にこそなっていないものの、同様の思想を持っている人は少なからず存在するだろう。「キモい」という言葉はそうした思想の一端を内包していると言って良い。こうしてルッキズム結びついた精神的快楽主義者はより先鋭化していく。次の章ではそんな彼らの「キモい」とは反対の側面、つまり「キモチいい」について、残る最後のキーワードである「ホスト狂い」と合わせて考察していく。

精神的快楽主義とホスト狂い

「キモい」と「キモチいい」

突然だが皆さんは辛いものを食べたときどうするだろうか。普通の人は水を飲んで辛さを洗い流したりも甘いものを食べて辛さを中和しようとするだろう。或いは辛い時や悲しい時に笑ったり楽しいことをすることで気を晴らそうとすることは誰もが当たり前に行っているはずだ。

同じことが「キモい」にも言える。「キモい」という精神的不快感を覚えたら、それを中和する為の「キモチいい」を欲するのは当然の流れだろう。そしてその精神的快楽欲求の矛先がホストクラブへと向いた時、後戻りのできない道の一歩を踏み出すこととなる。

快楽から降りられなくなった人達

ホストクラブは数ある接客サービスの中でも特に精神的快楽、つまり「キモチいい」を提供することに特化した場所だ。その様な場所へ「キモい」に人一倍敏感な人間が訪れるとどうなるか、結果は火を見るよりも明らかだ。弱った人間の心にカルト宗教が入り込むように、「キモい」を抱えた精神的快楽主義者の心に「キモチいい」が入り込めば、そこから抜け出すことが容易でないのは想像に難くない。

そうして精神的快楽に浸れば浸るほど逆に「キモい」への耐性が更に弱くなり、精神的不快感に対して敏感になっていく。また上でも述べたように精神的快楽主義者にとって「キモい」をもたらしてくる存在は敵であるために、それは同時に自分にとっての敵がどんどん増えていくことをも意味する。ここに外見で物事を判断するルッキズムの要素が加われば、尚更その動きは加速するだろう。

一方で自分にとって唯一の「キモチいい」存在である所のホストクラブに益々依存していく。繰り返しになるが「キモい」と「キモチいい」はコインの表裏であり、前者への攻撃性と後者への依存は常に同時に進行していくのである。

こうして最終的には自分に精神的な快楽を与えてくれるホスト以外は全て敵という究極に先鋭化したホスト狂いが出来上がる。きっと彼女達の目にはこの世に映る光景の殆ど全てが地獄に映っていることだろう。

オスはみんなキモい

ここで話を冒頭のりりちゃんに戻そう。警察の捜査によると彼女は「担当のホストをナンバー1にすることが自分の生きる価値や生きる意味だと思っていた」などと供述していたようだ。その一方で「オスはみんなキモい」と言い放ち、何の罪の意識を感じることもなく実際に「おぢ」を騙し多額の金品を奪い取っている。

彼女の目に映るのは周りを敵に囲まれた社会という名の地獄

世の男性を異常なまでに憎むと同時に過剰なまでのホスト狂いに陥るというアンビバレントな精神が同居する状況は一見すると理解不能なように思えるが、ここまで読んで頂いた方であれば彼女の思考が理解できるのではないだろうか。

キモい(不快感)とホスト狂い(快楽)はベクトルが反対なだけの同質のものだ。彼女が貢いでいたというホストは彼女にとって唯一精神的快楽をもたらしてくれる存在であり、逆に言うとそれ以外の男の存在は全て不快感=キモいをまき散らす敵でしかないのである。

社会における精神的快楽主義者

「キモい」は女性の専売特許ではない

ここまでりりちゃんという一人の人物が起こした事件をもとに「キモい」について論じてきた。彼女が女性であるという都合上、本記事の「キモい」論も専ら女性について論じたものと憤る人もいるかもしれない。しかし「キモい」は何も女性だけの専売特許というわけではない。最後にそうした社会全体における精神的快楽主義者の存在について述べていこう。

隠れ精神的快楽主義者という存在

りりちゃんやSNSで見られるような「キモい」という言葉をはっきりと口に出す人間はある意味非常に分かりやすい。公衆の面前でそうした言葉を平然と言ってのけられる時点で、彼らが一般の倫理観とは異なる倫理観の持ち主であることが一目で理解できるからだ。

もちろん世の中はそうした分かりやすい人間ばかりではない。むしろりりちゃんのような存在はごく少数派であり、殆どの人はそれを表立って口にすることはないだろう。しかし善悪の優先順位が一般とは異なる存在がいるという前提のもとに社会を見渡してみると、男女問わず驚くほどにそうした人間で溢れていることに気付かされる。

そうした直接的な言葉にこそ出さないものの言動の端々に善悪の優先順位の違いがにじみ出ている人、いわば隠れ精神的快楽主義者ともいうべき存在こそが本丸と言って良いだろう。あれこれと述べてもいまいちイメージがつかみにくいと思うので次に一冊の本を取り上げつつ具体例を挙げてみよう。

『正義を振りかざす「極端な人」の正体』より

ここで『正義を振りかざす「極端な人」の正体』(著:山口真一 光文社)という本について紹介したい。新型コロナウイルスで社会がロックダウンした中で自粛警察やマスク警察などの〇〇警察と呼ばれる、正義を盾にしたクレーマーの活動が活発化したことは記憶に新しいだろう。

本書はそうした「自分は正しい」という正義感による攻撃を行う「極端な人」の心理とその正体について明らかにしている。この本の中で彼ら正義を振りかざす「極端な人」の正体に関して、一般的には社会的成功者とみなされる人達の存在を明らかにした上で次のように述べている。

本人たちは自分が正しいと思って、正義感からやったと考えていたとしても、心の奥底にはそれとは異なる、生活や社会への「不満」があるということである。(中略)しかしその奥にはこのように満足していない気持ちがあり、正義感から攻撃を仕掛けることで、その不満を解消しようとしているのだ。

『正義を振りかざす「極端な人」の正体』P146

自らの正義感を笠に着てクレームを行う「極端な人」は寛容性が低いという性格的特性が本書の中で指摘されている。そしてその背景には上にあるように生活や社会に対する不安、あるいは不満があるようだ。また、こうした「極端な人」が陥っている負の連鎖についてこのように述べている。

「正義中毒」という言葉がある。(中略)この快楽に快楽に溺れてしまうとやがて極端に不寛容になり、他人を許さずに正義感から裁くことで快楽を得ようとし続けてしまう、正義中毒になるというわけである。しかも、この正義感から裁く快楽は、ネットでは現実社会よりも強いものとなる。(中略)仲間と共に悪に対して正義の裁きを下している図式になるわけである。

『正義を振りかざす「極端な人」の正体』P141

ここで不寛容・不満を「キモい」、「正義中毒」による快楽を「キモチいい」に置き換えてみると、彼らの行動原理の中に驚くほど精神的快楽主義的要素を見て取ることができる。自己の行いを正当化しようとする所までそっくりだ。

このように一見すると理解しがたいほどに極端な言動をとる人たちの心理も、精神的な快・不快というものさしで観測することで容易に言語化することが出来るケースは多い。

ダブルスタンダードな人たちの心理

同様のことはいわゆる「ダブスタ」な言動をとる人たちにも言える。リベラル界隈を中心として「自分が批判をするのは良いが他人が自分を批判するのは駄目」というスタンスの人間は非常に多い。なぜ彼らは臆面もなくこうした態度をとることが出来るのか、疑問に思ったことがある人も多いのではないだろうか。

そうした彼らの心理も精神的快楽主義という考え方で簡単に説明がつく。「自分が批判を受けるのはキモいからNG」ただそれだけだ。このキモい、キモくないの価値観が「他者を批判するのならば自分も同じ誹りを受けることの無いよう身綺麗であるべきである」という一般的な倫理観よりも優先されているというだけの話であり、要するに自分が清廉潔白であるかどうかは二の次なのである。

おわりに

普段私たちは倫理観、すなわち善悪の価値判断について漠然とした共通認識を持って社会生活を営んでいる。「人を殺してはいけない」とか「ものを盗んではいけない」といった具合に。この国に生きる殆ど全ての人が当然のこととして認識し、共有している。

そうした倫理観の根底が形成されるのは、親による躾はもちろんだがそれ以上に小中学校の道徳教育に依るところが大きい。学校生活における道徳教育を通じて、倫理観という名の社会的ルールを共有するわけである。いわば道徳教育とは、何が善で何が悪かを互いに確認し合う作業といえるだろう。

ところが昨今そのような前提が崩れてきているように感じる。流石に上に挙げた倫理観に反した倫理観の持ち主はそうそういないだろうが、少なくともりりちゃんの様に優先されるべき倫理観の順序が一般と異なっている人間というのは現実として存在しているようだ。

道徳教育に基づく倫理観が自分の中で確立しきる前にSNS、あるいは家庭環境等により別の価値観が入り込んで来た場合、一般的な倫理観とは異なる倫理観を持って成長するだろうことは容易に想像できる。ネット上のみならず現実社会においても根本的な部分で「話が通じない人」が増えたという風潮が叫ばれて久しいが、ひょっとするとその要因の一つはこうした所にあるのかもしれない。

最後に、私達は普段倫理観というものを当たり前のこととして認識しているが故に、あえて意識して考える機会は殆ど無い。しかし一度考え始めるとどっぷりと思考の沼にハマってしまう、こんなにも楽しくそして(良い意味で)恐ろしい世界があるのだということを初めて認識した。

実はこの記事自体も秋頃から書き始めてはいたものの、そうした思考を如何に言語化しアウトプットするか非常に難儀して、書いては消しを繰り返すうちにこんな時期までズルズルと引っ張ってしまった。何とか一審判決の熱が冷めやらぬ内に書き切れたのはよかったと思う。

多様性の名のもとに何かと「極端な人」で溢れる現代社会だからこそ、彼らの言動を単純な善悪で簡単に切って捨てる前に、少し立ち止まってその言動の背景にある思想について思いを巡らせみるのも良いかもしれない。それが逆説的に一般社会に通底すべき倫理観とはなにかというものを見つめ直すことにも繋がるように思えるのである。

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