ある電車内での風景

強面の、サングラスに麦わら帽子の長い髭をたくわえた67歳のおっちゃんが、電車の4人席を占領するかのようにどっかりと座った。窓際に座り、リュックを隣の席に置き、向かいの席と橋かけるように杖を置く。始発駅だったので人もまばらだったが、しばらく進むとそれなりに混んできた。

そこに、若いにいちゃんが乗ってきた。あたりを見回して、おっちゃんの席のとこしか空いていないことを確認すると、そうっと斜め向かいに腰掛けた。

一駅ほど過ぎたところで、突然おっちゃんがにいちゃんに話しかけた。

「ええねーちゃんおったか?」
「え?」
あまりにも突然、まさか自分に話しかけられると思っていなかったにいちゃんは狼狽えながら片耳のイヤホンを外し、咄嗟に聞き返す。
「ええねーちゃん。おらんかったかっちゅーねん。」
「いやー、、いないですね。。」
「昨日はほんま、ブスばっかやったからな。ウチんとこもおらんかった。」

一体何の話をしているのだ。ってか誰だこの人。
そういった様子でにいちゃんは改めてイヤホンをした。

「東京からの帰りや。」
「はあ。」
またも自分に話しかけているらしいので、諦めてイヤホンを外す。
本当は無視を決め込むか、席を移動すれば良かったのかもしれないが、にいちゃんはなぜかおっちゃんを無視できなかった。

「チンピラと喧嘩して勝ったんや。」
「はあ。」
「昨日な、足かけられたから「ちょっとこっちこい!」と言ってどついたったんや。そしたらさっきまで威勢よかったんに「すんませんでしたぁ!」ってそいつ、逃げてったからな、ははははは」
「元気ですね。」
「いやぁ元気なことあるか、昔は俺、もっと強かったんやぞ。」
愛想笑いで応じてはいるものの、なんとなく穏やかな表情のにいちゃん。最初の頃に目に浮かんでいた怯えが消え、なんとなく子どもをあやす時のような温和な目に変わる。
「昨日のやつはほんまに弱かったんや。あいつ、ちょっと俺が声出したらすぐどっか行きよって。」
「はい、あのでも、声抑えましょか。電車なので。」
聞いてもらえるのをいいことに、おっちゃんの喧嘩自慢の声はどんどん大きくなる。話の中身もどんどん大きくなる。
「つってもお前、昨日はほんまええ女おらんかったわ。」
「はあ。」
「昨日のやつ、追っかけて殴ったっても良かってんけどな。」
「喧嘩は良くないですよ。」

何度目かの同じ話の繰り返しの後、少しの沈黙が生まれた。
にいちゃんは、イヤホンをしなかった。

「あんた学生か。」
「はい、今日は大学の帰りで。」
「ああそうか、わしも昔はな、近大、近大のとこの先生の弟子やってんぞ。」
「へえ、そうなんですか。」
「ああそうや、近大のな、偉い先生のとこのな。俺は学生ちゃうかってんけどな、現場でよう世話になったんや。」
「現場ですか、そうなんですね。」
にいちゃんの返事に機嫌が良くなり、おっちゃんの声がでかくなるとまた、
「ちょっと声抑えましょうか。」
とさらっと嗜める。
おっちゃんは、向かいの席に橋かけてた杖を下ろした。

1人、また1人と降りていき、さっきより心なしか静かになって声が響くようになった車内でおっちゃんがつぶやく。
「おとうちゃんは元気か。」
「僕のですか?」
「そうそう、君んとこのパパや。」
「はあ。まあ元気ですよ。」
「おん、元気か。」
少し口の中で言葉をごにょごにょと転がした後、おっちゃんは
「たまには飲みに誘ったれよ。」
にいちゃんは拍子抜けしたような顔の後、
「はい、今度ご飯誘います。」

「次の駅はなんや。」
「次は〇〇ですね。」
「そんな駅止まらんでええねん。」
「まあでも最近はここも使う人多いですからね。」
かれこれおっちゃんとにいちゃんの会話が始まって20分が経つ。
おっちゃんは時に文句を言い、時に大声で自慢することを繰り返し、にいちゃんは変わらず上手にかわしながらも愛想良く相槌を打つ。

「もう12:30や。飯は食ったんか?」
「食べました。」
「俺この前、秋刀魚の定食食べたんや。あれで600円。やっすいなぁ。」
「安いですねぇ。」
「あっこのラーメン知っとるか。ほら、京都駅の。」
「いやー、知らないっすね。」

奇遇にも、二人の降りる駅は同じだった。おっちゃんは杖にもたれかかるようにしてゆっくりと降りていき、にいちゃんはそれを見守った。
30分間だけの関係。それでもホームで、じゃ、と片手をあげるおっちゃんに、では、と片手をあげ返したにいちゃんとの関係は夏の一コマにしては美しすぎる絵だった。

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