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卒業論文「終わりに」

初めて長い文章を書きました。卒業論文です。
卒論と言っても、学部や大学によってかける時間も労力も全然異なります。そういう意味で、私のとこは比較的長い時間をかけて卒論を作っていったように思います。
私は2年間、高校にフィールドワークに出かけ、そこで見たり聞いたりしたことを記録する「参与観察」とインタビューを使って、高校生の居場所について検討しました。簡単に言うと、居場所づくりの研究です。(詳しいことはここでは公開しません。興味のある人は知り合いに限り読んでもらっていますのでご連絡ください)

私にとって、そこはこれまで私が生きてきた世界とは全く異なる日常が広がっており、新鮮に感じていたのですが、急激にしんどくなったりもしました。本当にいろんな経験をさせてもらいました。生徒からたくさん教えて貰って、生徒を傷つけてしまって、生徒に話してもらって、随分と泣いたり笑ったり怒ったりしました。多分私は、そこで少し大人になってしまったんだと思います。先輩に連れられて初めて行ったあの日、私はまだ完全に子どもでした。歳だけ一人前に20歳であったものの、まだまだ感覚はフィールドで出会う高校生たちと変わりませんでした。2年かけて、あの子たちとの年の差が2歳から4歳に変わったことで、私は距離がぐんと遠くなってしまいました。

具体的に書けないので、なんとも抽象的で断片的な話なのですが、とにかく、2年間葛藤したりモヤモヤしたり世界を憎んだりしながら、書きたかったことは書けずに筆を置いた卒論となりました。
以下が「おわりに」になります。(一部修正済)


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卒業論文執筆にあたって、とても悩んだことがありました。生徒一人ひとりのことについて詳しく書こうとすると、手が止まってしまうのです。私は、あの子たちに何のラベルも貼りたくありませんでした。カテゴリーで人を括ってしまうことの暴力性は、「居場所Y」で生徒らと二年以上過ごす中で痛いほど学んできたことだからです。本当は、〇〇さんという一人の名前のついた生徒としてありのままを記述したいと思いました。しかし、匿名性の担保と相まって、情報が削ぎ落とされアルファベットを付与された生徒らは、論文上でのっぺらぼうになってしまいました。生徒らの情報を付記すると、どうしてもそこには「しんどさ」が表出してしまいます。本人がしんどいと感じているかは置き去りにされ、社会的に不利な立場であるという情報だけが前に出てしまう気がしました。そうすると、開かれた場である「居場所Y」が「しんどい生徒」だけのための場として捉えられてしまうのではないか、それがとても怖かったのです。来所する生徒は事実として、多くの生徒が発達障害や知的障害を抱え、一人親家庭や生活保護家庭であり、母になる生徒、ステップファミリーで軋轢を抱える生徒、ヤングケアラーの生徒などがいます。一人一つどころか、いくつものラベルを持つ生徒も多く、スタッフの方が「みんな何かの当事者」(某日インタビュー)と仰っていたこともよくわかります。それでも「居場所Y」では,多くの生徒の「居場所」となるようそれぞれの背景を受け止めつつも、一人の生徒として向き合い関わっている姿が印象的でした。しかし私の力量不足で、そういった点は十分に描くことができませんでした。サードプレイスでは「社会的地位は一旦括弧に入れて」語られます。そこでは生徒らの置かれた不利な状況は見えなくなってしまいます。「居場所Y」は開かれた場ではありつつも、事実としてやはり「居場所」を社会に持ちにくい不利な状況に置かれた生徒にとっての重要な役割を果たしている場なのです。それがどういう意味を持つのか、あの子たちが社会からどのような排除や抑圧を受けているのか、といった点に思いを寄せずしては、「居場所Y」の機能を十分に説明することは困難です。このような葛藤を抱え、現時点で出せる最大限の答えがこの卒業論文になります。

作られた「居場所」とて、人と人が存在する場である以上、そこでは傷付け合いも葛藤も生じます。完全に守られた世界ではないのです。しかし作られなければ、生徒たちのほっとできる、安全な「居場所」がないこの社会への苛立ちが私の研究の原動力です。

私は、「居場所づくり」は絆創膏のようなものだと考えています。この社会で悩み、孤立し、「助けて」が言えない人がアクセスし、そこを「居場所」と感じられるようにとわざわざ設けられたものです。90年代以降、孤立化と地域のコミュニティづくりが模索されるようになり、学校の「居場所」化が叫ばれ、近年は子ども食堂をはじめとした「居場所づくり」がブームになる中、この社会には絆創膏ばかり増え続けています。誰がよく怪我をしてしまうのでしょうか。どうして怪我をしてしまうのでしょうか。本当に絆創膏で補える、目に見える傷ばかりなのでしょうか。

作られなければ居場所を感じることができない人が多いこの社会がおかしいのではないか。「居場所」の研究では、そういった視点が欠落しているのではないかと感じています。今後は、若者の「居場所」「居場所づくり」の研究を通して、息苦しいこの社会のあり方を問うていきたいと思います。


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たいそうな事を書いたようで、実は全然中身のない論になってしまいました。書きたかったのは、高校生にとっての居場所の意義です。なのに、私は支援者らの言葉に引っ張られて最後まで書いてしまいました。スタッフの言葉は、団体の理念よろしくポリシーとミッションがあり、とても力強く、かつ「正しい」ように聞こえます。

しかし、その解釈を問うのが研究だったのではないか、と後悔しています。高校生の話す言葉は掴みどころがなく、扱いづらく、論証立てては話してくれません。私がどう汲み取るのか、どう組み立てるのか、それにかかっているのに、結局使ってしまった枠組みは支援者の、おとなの言葉でした。使いやすい言葉に流されて、私はあの子たちの声を聞けていなかったのかもしれないと謝りたくなります。

一体どうして、高校生(子ども)の声をそのまま記述することがこんなに難しいのでしょうか。保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー』(2018)や、最近読んだ上間陽子の『裸足で逃げる』(2017)を思い浮かべながら、来年度以降の私に何ができるのか、悶々と考えながら、今日も本を読み、あの子たちに会いに行きます。

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