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「わたし」という唯一の人としての価値が欲しい。

人一人分の価値ではなく、「わたし」という唯一の人としての価値が欲しい。

用事をお願いされる時も、「タスクを消化する人」としてお願いされるのではなく、「わたし」だからお願いされたい。
遊びに行こうと誘われる時も、「人数合わせの人」として誘われるのではなく、「わたし」と行きたいからと誘われたい。
一緒にお昼ごはん食べる時も、「たまたま今そこにいた人」として声をかけられるのではなく、「わたし」と食べたいからと声をかけられたい。

自分にそこまで人を惹きつける魅力がないのは重々承知の上で、誰かに必要とされたいんです。自分が特別何かできることがあるわけでも面白い人なわけでもないのは分かっているけど、誰かにあなたじゃなきゃダメなんだと言われたいんです。「わたし」という唯一の人としての価値は、私の存在意義のように思えるし、生きてていいんだという安心感をもたらすから。それが欲しくて、私に唯一の価値を見出してくれそうな人を見つけると、必死になって繋ぎとめようとします。

「わたし」の存在価値って、唯一無二性がないと、無いに等しくないですか?「わたし」が人一人分の価値しかないなら、それはいつでも代替可能品で、今日「わたし」がここにいる理由なんてなくなってしまいます。
だから、選んでもらう時には「わたし」である理由がほしいし、それ以前に相手には複数の選択肢の中から「わたし」を選んでほしいし、その理由にはとことんこだわってほしい。
だってそれが「わたしの存在価値」であり、少し大げさに言うと生きる意味に等しくなるから。

でも本当は、怖くて本気で繋ぎとめることなんてできないんです。

私は、「山月記」の李徴のように、臆病な自尊心しか持っていないから。
さっき、自分を卑下するように「人を惹きつける魅力がないのは承知で」だの、「何かできるわけでも面白いわけでもないけど」って書いたけど、それも逃げです。誰かに本当に「おまえは魅力がない」と言われるのが怖くて耐えられないから、先に自分で言ってしまうという予防線を張ったんですよね。
同じように、本気で繋ぎとめようとした人が私から離れて行ってしまった時に襲われるであろう絶望感や孤独感が怖くて、「本気」で繋ぎとめるなんてことはできません。それと同じくらい、他人に私自身のすべてを晒すことは怖くてできません。
自分のことを他人に見せれば見せるほど、否定の言葉が深く刺さるから。
上辺のわたしや偽物のわたしを否定されたら、それらを生贄にわたしそのものは傷つかずに守ることができるから。

私の小さくて臆病な自尊心は、私がたくさん張った予防線の中でしか守れません。
「わたしだから」頼みたい、遊びたい、会いたいと思ってほしいなんて願うくせに、実際にはそれ相応の付き合いをする勇気はなくて。
何か一つのことに全力をかけて力を捧げることも、誰か数人の気の知れた人に完全に心を許すことも、結局「わたし」が否定されることを恐れて今までずっと逃げてきました。それよりかは、複数のことを渡り歩いてそつなくこなした方が「すごいね」って言ってもらえるし、失敗しても「そんなに抱えすぎだからだよ」と言ってもらえますから。

つまるところ、他人から「わたし」という唯一の人としての存在価値を認めてほしいのも、自分で自分を卑下して予防線を張るのも、私が「わたし」の価値を認めてあげられる勇気も自信もなくて、ただただ臆病な自尊心を大切そうに抱えたままうずくまるしかできないという弱さを反映しているだけなんでしょうね。
強くありたかった。


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