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”わたし”とは なにか

同一化している主体の「私」については、世の中のほとんどの人が考えたこともないです。これがうぶさの根源と言えるかもしれません。

はあー….私とはなんなんでしょうか。
私なんて存在するんでしょうか。なんか常に色んなものに同一化してる気がしちゃう〜

一度ご自身で具体的に考えてみるといいと思います。自分のこととして具体的に。私は誰なのか、存在するのか…みたいな話は僕は大好きですからw、いくらでもうんちくを語れるわけですけど、
ここで話している流れ、文脈でいうと、僕の話を鵜呑みにしちゃって終わりじゃちょっとまずいと思うんです(笑)。
鵜呑みにしちゃう人間のうぶさを批判しているわけだから。
自分で具体的に考えてみるときに、考えるための地図としてひとつの喩えを示したいと思います。

★★馬車のワーク★★
馬車を思い浮かべてください。馬と御者と車のセットですね。
※ 現代の生活に合わせて自動車を使うこともできるんですが、このあとを読めば馬車のほうが比喩としてしっくりくるところがたくさんあるのに気付いてもらえると思います。

馬が動力源ですね。馬が車を引っ張って馬車全体が進みます。
御者は馬の手綱を持って制御している人のことですね。運転手さんです。
引っ張られている車に人や荷物を乗せることができます。

これを人間に当てはめると、
馬は感情です。人間の動力源。動因(ドライブ)というか。
御者は思考です。考え、マインドですね。感情の言葉のレベルはこちらに属すことが多いかな。感情の無意識のエネルギーの方は馬の領域ですね。
車が身体です。肉体。肉体は機械ですね。とてもよく設計された機械です。

ここまでで日常「自分」とか「人間」と思っているものと馬車との対応関係がイメージできたでしょうか?

さぁこの構成要素の中に「私」はいるでしょうか?どこにいるでしょう?
馬車の比喩で「私」はどの部分に相当するでしょう? または、なにかとなにかの組み合わせになるでしょうか?

ドリルの無駄な部分を省いてショートカットしてしまいますと、馬、御者、車の中のどれか、または全てを組み合わせても「私」は見つかりません。
そうなんです、このレベルで考えていたら「私」なんて存在しないんですよ。それ以外に答えはありません。
これは一般的な認識からするとちょっと飛躍した話をしています。
一般の人たちの多くは、御者を「私」と考えています。
御者、つまり、馬車を運転している人を「私」と思ってる人は非常に多いです。思考に同一化してるってことですね。記憶の蓄積に同一化している人もいます。
感情やエネルギーに重心を置きすぎている人、つまり、感情に同一化している人は馬を「私」だと思うかもしれません。
でもネガティブな意味でそう思っている人が多いでしょう。普段冷静なときは思考と同一化して「私」を保持している。だけど、ショックなことがあって感情が爆発するとコントロールがきかなくなる。そういうときに自分を振り回している感情の方を「本当の私」だと言ったりする。
身体、つまり車を「私」と思っている人も案外いますね。肉体的な身体なんてそのうち壊れてなくなっちゃうのに。

さて本題に入っていきましょう。

この馬車の喩えは決して僕のオリジナルではなくて、たくさんの人が使っている喩えです。古くからあるものですね。
仏教は無我(出来事は起こり、行為はなされるが、行為者はいない、という考え方)なので、上の馬車の喩えを使って、「私」と言えるものがないことを納得がいくまで確認する瞑想をします。

これはこれで面白いのでやってみてください。

ただ、出家して、修行に没頭できる人は仏教の瞑想法を突き詰めてもいいのですが、これは現代の現実的な生活の中でやるのには適しませんw
もっと身近に、具体的に考えてみたい、現実の生活をする中で、という観点でドリルを提案したいです。

そのためにグルジェフの意見を参考にしたいと思います。

グルジェフは馬車(馬、御者、車)の説明をした上で、「現代人は乗合馬車のようなものだ」と言います。
これは100年前(20世紀前半)の講話での発言ですが、21世紀の我々にもそのまま当てはめることができると思います。
乗合馬車とは今で言えばタクシーですね。
乗合馬車は、誰が乗ってくるかでオーナーがコロコロ変わるということ、ここがポイントです。
お客さんが「どこどこに行け」と言ったらそこに行くわけですけど、目的地についてお客さんが降りちゃったら、馬車は次のお客さんが乗り込むまで誰のものでもない上に馬車としては無価値な状態になってしまうわけです。

感情と思考と身体を合わせた馬車が、外から乗り込んできたお客さん=なんらかの主義だったり、権威だったり、欲求の対象(他者とかお金とか)だったりに乗っ取られ、用が済んだら乗り捨てられる。誰も乗ってないのは不安でしかないから、無理矢理にでもまた別のお客さんを乗せる。
馬車に同一化するのが当たり前になっていて、それを疑いもしない人は、こういうことを日々やってるんですよ、そのまま人生の時間を無駄遣いしちゃってるんですよ、というのがグルジェフの意見ですね。

さぁここからドリルを始めましょうか。


Q1: あなたは乗合馬車的でしょうか? もしそうであれば、今までどんなお客さんを載せましたか?

特定のお客さんが乗ってないときの「空車」状態のときのほうが、その人の性質がもろに出るかもしれませんね。
このとき、大抵の人は不安や焦りを感じます。


Q2: 「空車」になってしまったとき、あなたはどんな行動をしがちですか?

Q1とQ2は準備体操だと思ってください。本題は次のQ3です。

グルジェフは「そもそも乗合馬車のままじゃいかんよ」と言います。
そうではなくて「馬車のオーナーになりなさい」と言うわけです。
この馬車のオーナーが現実生活の中で本来在るべき「私」だと彼は言います。
馬車(感情、思考、身体)の「持ち主」になりなさい、ということですね。
一時的なお客さんを乗せる乗合馬車の、しかも、そのお客さんではなく馬車の方に自己同一化しているのが現状です。
まず練習としては馬車への自己同一化を解いて、お客さん=一時的にでも自分自身が自分のオーナーになる練習は必要かもしれません。
そしてゆくゆくは馬車のオーナー、持ち主、管理者であるという意識が定着するようになると良いと思います。

Q3はつまりこうです。
Q3: 馬車のオーナーで在るとはどういう状態か具体的にイメージしてみては?
ですね。

そうすると必然的に、馬車(感情、思考、身体)を無闇にいじめることはなくなるんじゃないかと思います。
と同時に、馬車の構成要素のいずれかに同一化することも徐々に減っていって、外からの個別の情報に乗っ取られて振り回されることも減るんじゃないでしょうか。

とにかく、Q1~3を具体的に自分の言葉や感覚や経験を当てはめてドリルしてみることが重要だと思います。

*******

じっくりと考えていましたが、
わたしは乗合馬車だし、もしかしたらオーナーになったことなど、一度もないのかもしれないなあ…
そんなことを考えているとなんだかむなしくなってきて、
私はだれで何のために生きているのかわからなくなってくる

そんな夜もあるよね

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