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無駄なものは一つもない、懐疑の精神

おはようございます。
クマ犬ぽたです。

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寄り道した方、是非美味しいプリン紀行で食べた気分をリフレッシュさせていきましょう。

さて本題へいきます。
無駄を無くそうというのは、よく仕事で言われることです。

果たして本当に無駄はない方が良いのだろうか。そう考えるようになりました。

効率重視でやっていたらどうなるのだろうか。こういう発見はなかったとか。
急かしても何も良いことはありません。
仕事のこぼれ話も、余白の時間、実は直視してないときのほうが、浮かんできて思わず話し込んでしまうことがままある。

そういう細かいことを気にせずに短縮して早く出来ればいいと言う考え方が、昨今の不祥事に繋がっているも思えて仕方ないのです。

やるべきことを怠っていた。
省いていていた。
形骸化していた。とかあるのだけど、シャカリキにものを生産していた時代はそれでも良かったかもしれない。

しかし、今は早く作るというよりは付加価値を上げて、お客様を満足していくという考えも出てきているので、品質を問うことが増えてきているようにも感じます。

その作業はいるかとかいらないとかの精査はあってもいいけども、無駄を省きすぎた代償は大きいです。

道端にある草木に目もくれず、ただ目的地に突っ走るような感じですね。
その道中にも美しい風景や趣きというのはある。
どうしてこの花はこんなところで花を可憐に咲かせているのだろうとか、ど根性大根はなんで、こんなアスファルトに芽をだして、成長しているのだとか。
植物の生命力には圧倒されることがあります。

これまでに本の紹介でもあったように、自分とは何者なのかを問う際にも無駄な事が必要だと思っている。

そういう気持ちの余裕がいるのだとおもう。
焦ってそこら辺にあるものをぐちゃぐちゃあさっても、仕方ないのです。

読書の道に足を踏み入れるきっかけとなったのは無用の長物といわれているからである。
しかし、読書から知った世界は、一縷の光が差したように私の心に届くギフトばかりであった。

特に哲学の世界へと前進していくのには、それなりの悲しみ経験していないと理解するのは困難な道とも言われている。

しかし、偶然師匠からもう読まないから本持っていきいやと言われたものがいまでは、とても心に響いてきたり、本が旅してここに来てくれたんだと思うと有り難い御縁にも感謝したくなる。

情報としての読書をしていたらば、読まなくて答えのある楽な道へ進めばよいのです。

ところが、わたしの場合はそうは行かなかった。懐疑が頭を過ぎるのです。


懐疑とは何か、私の生きがいは熟語やその時に出会う言葉を調べて、自分事として向き合うことです。
よく先輩は疑えといいます。疑い過ぎてもあきませんし、疑わなすぎもあきません。

毎日のように雪崩込む仕事を私たちは指を咥えて待ち、そこでミスをして自分を責めて辛酸を嘗めてまた落胆でもするのでしょうか。

取り留めもなく、後輩がそのようなおもいになってほしくないと考える私に、小林秀雄さんから言葉のギフトがありました。

図書館で全集を読みたいなあと思っていて、小林秀雄か稲垣足穂をみてみようということで、選んで手に取った小林秀雄全集にある様々なる意匠からを引用させていただきます。

冒頭から

懐疑は、恐らく叡智の始めかも知れない。然し、叡智の始まる處に藝術は終るのだ。
アンドレ・ジッド

小林秀雄全集

ジットは狭き門のいう純愛を書いたノーベル文学賞を取った方です。小林秀雄さんもここに感化されたと思う。

それは日々自分の仕事に対しても、生き方に対しても真摯にむきあってこそ掴んでいけるものだと思っています。

自分自身を成長させていくにもまずは問いを持つはとても大事になってきます。

懐疑というのは、疑問を持つこと、疑うことです。明確な理由、原因がなく、直感、感受性に近い感じです。これ対して、叡智は知性や知識、教養、学問に当たるもので、合理根拠に基づく思考、その集合体です。

つまり「疑うことは学問のはじまりだ」ということを言っています。

ここで大事なのは叡智よりも懐疑にあることです。
アンドレ・ジッドも小林秀雄さんも、素朴な疑いの感情をを持つことが重要であるのでは言っているように見えます。

そして更に、叡智が始まるところに芸術を終るのだと続きます。

芸術は、芸術や文学のことをいっています。
ここでは、「学問や教養が始まる処に芸術は終わる」と言っています。つまりは「芸術や文学は学問や教養とは違う」ということです。
そして、芸術や文学の本質は、叡智では無く、懐疑にあるということです。

学問や教養だけをすれば良いのではなく、自らが考えて疑うことも必要である。それが人間としての直感を働かせたり、芸術や文学へと繋がっていくということですね。

クリエイティブな考え方を作っていくときにとても役に立つのが懐疑なのです。

天台宗阿闍梨の酒井さんも人生に無駄なものは一つないとおっしゃっているように、全てが自分の学びへとなる。用は思いようであるということですね。

困難な道が人としての成長を促してくれる。世間一般が無駄を省こうとしている中で、わたしは今一度無駄なことをしようと思います。
だって、無駄なものは一つもないのだから。

◇◇◇
終わりに

業務効率でよく言われる、3M(無理、無駄、ムラ)を無くすというのは確かに仕事の場面では有効になる考え方だと思います。

しかし、人間はそうはいかなくて、無駄を無くそうとすれば、心が荒んでいってしまう。その人らしさという良さも消えてしまうような気がします。

人間味を出していくには無駄な事をあえてしてみる、少し寄り道をしながら追究出来たらと思います。

何も、人様に迷惑をかけて無駄を作り出す必要はないと思っています。生き方として、余白や間、無駄というものをもっていると心が少しは軽やかになるかなと思って書いています。

無駄がムダじゃ無くて、誰かのためになっていることもあるのかもしれないから。

ちょっとだけ肩の力を抜いて、深呼吸してみる。
いつも休憩しないなら、休憩してみる。

意外と休んだほうが、すっきりして仕事が捗るかも知れませんね。

さあ今日も一日元気にいきましょう!

最後までご覧いただきありがとうございました。
それではまた👋
ご機嫌よう!




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