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ファッションについて本気出して考えてみたら世界との距離感が変わった話

コンセプトを持ってみたら、世界と私の間に距離ができた。突飛に聞こえるかもしれないが、私にとってコンセプトとは、身体の軸だった。

これまでの私は、言ってみれば身体が常に前のめりな状態で、目の前の対象すれすれまで顔が近づいていた。それが、身体の軸を意識するようになったら、前傾していることに気がついて身体を起こせるようになった。その結果として今は、私と対象との間に一定の距離ができている。

そんな気がしてならない。

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私のコンセプトは、「人生を遊ぶ反逆者」。これを掲げ始めてすぐ、ファッションではなく仕事への取り組み方が変わったことに、私自身が驚いた。

世の中とは面白いもので、そこから目に見えて仕事量が増え、組織の上位者と話す機会も増えた。取り扱う数字は自分なりに真剣に読み解き始めたし、分析した結果をどうすれば分かりやすく伝えられるか、必死で考え始めた。議論し、手を動かし、また議論。

そんな日々を過ごしていると、わかりやすく自分が調子に乗る瞬間がある(おっ!今のファインプレーじゃない?しごでき!評価上がっちゃう?!)(←)。

あるいは、『もっと早く終わるかと思った』という上司の心ない一言にイラっとすることも(いやアンタExcel使えんし知らんやろけど、このグラフ作り直すのけっっっこう大変よ? こちとら他の業務もあるし!)。

そんな時、「人生を遊ぶ反逆者」と心の中で呟くと、「彼女」が現れる。

――何調子こいてんの。てか何をアツくなっちゃってんのよ、のめりこんじゃってさ。仕事だって遊びの一つでしょうが。どうしたのよ、仕事があんたのすべてだとでも言うわけ?

それで、我に返る。

感情の波が引いていくのをぼんやりと見つめながら、私は、自分がたった今仕事の中に埋没しそうになっていたことを知る。その瞬間、思う。


もしかして、今まで私、こうやって場面ごとに埋没していたんじゃないの?仕事もそう、家でもそう。自分の中から湧き出てくる感情や思考に飲み込まれて、いつも自分のことが見えなくなってたんじゃないの?


もちろん、埋没することが100%悪いわけじゃない。

何かに極限まで集中するときは「没頭する」とか「我を忘れる」と言うし、その状態でしか生まれない極めて高いパフォーマンスだってある。ただ私の場合、あまりに埋没する頻度が高すぎたんじゃないか。その結果たとえば、周りのことが見えずに自分の思いだけで突っ走ってしまったり、一度心に生まれたネガティブな感情が一気に膨れ上がって爆発してしまったり。

埋没とは、世界と自分の距離がゼロの状態。車で言えば、スピードを出して走っている状況で車間距離がゼロになれば、即死だ。ゆっくり走っていれば軽いケガですむかもしれないけれど、車間距離ゼロのままでは、自分が行きたい方向に行くことはできないし、そもそも発進することができない。

行きたい時に行きたい所へスムーズに行くためには、まず自分がどこにいるかを知らないといけないし、道路状況だってよく確認する必要がある。そのためには、前後周囲の他の車との間にある程度の距離――遊びがいる。

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ファッションとは言わずもがな、毎日身に着けるものだ。

雑誌やSNSの中にあるファンタジーとは違って、私にとってのファッションとは、暮らしの中のリアルな選択だ。他の誰でもない、私自身が心から納得のいく服を手に入れるためには、今のしょんぼり体形にだって向き合わないといけないし、送り迎え・通勤・買い出し・お出かけといった生活パターンや行動範囲を踏まえる必要がある。

私は服を選び抜くことを通して、自分が何に心地よさを感じ、何に価値を見出すのかを知っていった。心惹かれる服に出会うたび、自分の中に浮かんだ感情を丁寧に掬い上げ、しっくりくる言葉を探してはnoteにしたためた。そのたびに、自分で自分の輪郭を少しずつ削り出しているような気がした。

薄皮を取り除くように自分の心のひだを一枚一枚かき分けていくと、キラリと光るキーワードがいくつか顔を出し始めた。それを取り出しては脇に置き、陽の光にかざし、キラキラと輝く様をしげしげと眺めた。けっこう溜まってきたところで、一息つこうかとお茶を淹れに立ち上がった時、目の前に、すべてのキーワードがぴったり収まりそうな箱があるのに気がついた。

その箱が、コンセプトというわけだ。

「人生を遊ぶ反逆者」とは、そんな風にして私の奥底から出てきた言葉だ。だから、私から見て「なりたい」というほど遠くにあるものではないし、「ありたい」といってもまだちょっと違和感がある。えいやと思い切って言ってしまうなら、それはもうすでに、「私」なのだ。

ただ、私の目にはずっと、その「私」が見えていなかった。


私たちは、鏡がなければ自分の顔を見ることができない。背中なんて、鏡を使ったってあんまりよく見えない。まして、たとえば交差点で信号を待っている時自分がどんな姿勢でいるかなんて、定点カメラでもない限り確認することはできない。

そのくらい、自分という存在を「外側」から認識することは、難しい。

だから私は、「外側」から見た自分こそが「まだ見ぬ本当の私」なのだと思い込んでいた。自分がどんな姿をしているのか、ずっと誰かに教えてもらいたかった。自分には何が似合うのか、自分はどんな人間なのか、自分にぴったりな職業は何か、わからなくて知りたくて、人に訊いて回っていた。

だけどある日、思ったのだ。「あなたはこんな姿をしているよ」と誰かに教えてもらったその姿は、本当に私なんだろうか。その答えを疑いもせずに受け入れて、私は心から納得できるのか。他ならぬ私という人間の定義を、赤の他人にまるごと明け渡してしまって、本当にそれでいいのだろうか。

私は、自分のことを人に訊くのをやめた。

それで、自分で自分の奥へと潜り込んでいった。その入り口は、ファッションという一見何の関係もなさそうなテーマ。だからこそ、潜ることが全然苦にならなかったし、魅力的なファッションアイテムや店員さんとの出会いがただただ楽しくて、気がついたらずいぶん深く潜っていた。

たどり着いたのは、私の中の一番奥。そこで初めて私は、どうにかして見てみたいと長い間思っていた「私」を目にしたのだと思う。それは想像していたような、「外側」から見た私ではなかった。内側も内側、自分の一番奥にある、身体の軸だった。

***

かと言って、これで私は「私」について全部わかった、などというつもりはこれっぽっちもない。

「私」について、今もなお見えていない部分については、この先やっぱり人に教えてもらうことになるだろう。ただし、闇雲に答えを訊いて回るのではなく、人との関わりの中で、あくまで自分自身で気づくという形で。私はこれからも当たり前の日常を生きていく中で、周りの人と交わりながらもっと「私」について知っていきたい。

身体の軸を意識するようになって、知らず傾いていた身体を起こし、世界と適切な距離を取ることを覚えた私は、今ようやくそのスタートラインに立てたのだと思う。目の前の人と健やかに関係を結び、物事に対してできるだけフラットな見方をするためには、まずは自分自身が軸を持つ必要がある。

そういえば。

最近の試着の旅で出会ったのが、私より一回り以上若そうな店員さんばかりだった。いかにも服飾系出身、バチクソオシャレな金髪のお姉さん相手に、今までだったら妙に構えてしまって、変にぎこちない受け答えをしてしまうところだった(しょーもないでしょ? そういう人間なんですよ私)。

でも、今回は違った。お姉さんたちとの会話はどのブランドでもめちゃくちゃに楽しかったし、何よりみなさん、べらぼうに優しかった。

そんな出来事にちょっとだけ、自分の成長を感じている。


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