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詩の編み目ほどき⑯ 三好達治「谺(こだま)」後編

 谺 
                      三好 達治

  夕暮が四方に罩 (こ) め、青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。   草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野の中で、彼は高い声で母を呼んでゐ
 た。

   街ではよく彼の顔が母に肖 (に) てゐるといつて人々がわらつた。釣針の
  やうに脊なかをまげて、母はどちらの方角へ、点々と、その足跡をつづけていつたのか。夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。

    しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺になつた彼の叫声であつた      のか、または遠くで、母がその母を呼んでゐる叫声であつたのか。

   夕暮が四方に罩め、青い雲が地平に垂れてゐた。

1930 (昭和5) 年 三好達治第1詩集『測量船』所収 「谺」全文

🌐「谺」とともに詩集『測量船』に納まる詩「鹿」とのつながり

1930 ( 昭和5) 年刊行の三好達治第1詩集『測量船』に収まる「谺」、この詩の読み解きの前編からの続き。
「谺」には、異郷での里心から、母を恋い慕ったであろう幼児の心理が映っていると見るわけだが、同じく『測量船』に収まる「鹿」という詩は、「谺」よりさらに屈折した仕掛けを施しながら、「私は、何か不意に遠くにゐる母の許へ歸りたくなつた」と、母そのものと見るよりは故郷恋しさの思いが、たったひとつ言いたい結論のように示されている。昭和2年、達治27歳のとき、親友で作家の梶井基次郎の療養地先伊豆湯ヶ島での作とみなされている。

 鹿                    
                       三好 達治

 夕暮れ、狩の獲物が峠を下りてくる。獵師が五六人、犬が六七頭。――そ
 れらの列の下りてくる背ろの、いつとは知らない間にすつかり色の變つた
 空路に、晝まから浮んでゐた白い月。
                ( 中略 )
 私は私の前を通るさつきの獲物の、鹿の三頭に行き會つた。
 棒に縛られて舁がれてゆくこの高雅な山の幸は、まるで童話の中の不
 仕合せな王子のやうに愼ましく、痛ましい彈傷たまきずは見えなかつたけ
 れど、いかめしい角のある首が變なところへ挾まつたまま、背中をまるく
 して、搖られながら、それは妙な形に胡坐を組むでゐる優しい獸の姿であ
 つた。生氣を喪つて少しささくれた毛並は、まだしつとりと、あの山に隱
 れた森と谿間の、幽邃な、冷めたい影や空氣に濡れてゐた。
                  ( 中略 )
 そこでふと私も、夕暮れ見たあの何か心に殘る、不仕合せな王子の街道を
 運ばれていつた話をした。
 —— あらほんと、鐡砲が欲しいわね。
 —— ‥‥‥‥
 —— ね、鐡砲が欲しくない?
 —— ええ、さう、‥‥‥‥ 鐡砲も欲しいですね。
 淋しい風が吹いてゐた。

 私は、何か不意に遠くにゐる母の許へ歸りたくなつた。

1930 (昭和5) 年 第1詩集『測量船』所収 「鹿」より

まだ生暖かそうな、撃たれて間もない獣が、青木繁の名作「海の幸」の絵のように猟師に担がれてゆくという、死せるものが主役の《死の行進》の情景であるが、そこに寒々とした感覚を覚えたということだろう。対極にあるものが、「母の許」というふうにこの結語からは読み取れる。
しかし、「鹿」に現われる母は、「谺」の中の母が示している、切実な、他に求められない、魂の希求する母ではない。ここには、『測量船』という第1詩集を、作者であり詩集のアレンジャーである達治が、母の追慕という観念、またその逆説として、母の円光の内にいる我という存在を脱ぎ捨ててゆかんとするという意識を下に敷いて、詩集の諸編をゆるく結合させようとしている意図が見えていると解釈できるだろう。

🌐「鹿」後年の改作ー「母」という措辞を消したこと

そういう若き日の創作上の気負いが浅く感じられたのだろうと推測するが、詩人としての名声を得た後年、達治は最後の行をこう変更した。

「私は、何か不意に遠くにゐるの許へ歸りたくなつた。」
「母」を「人」に変えたのだ。そのため今日、三好達治の全業を振り返る著作には、「人」として記述されているが、私は「母」を「人」に変更したことは、この詩の核心を失わしめたとさえ思う。

「鹿」に書かれた場面は、青年達治が遭遇したと思われる出来事であるが、詩の本質は、今しがたまで命ある存在が死の姿を晒されることへの、そして死を糧に人間は生きている現実の痛切さにおびえている思いである。それは少年の眼であり、少年の感性であろう。とすれば、帰りたくなるのは「母」であるのが必然なのだ。それが、達治にこの詩を書かせ、直感的に「母」の措辞を選ばせた。
「人」では、詩が浮遊してしまう。

「谺」に話を戻す。
「街ではよく彼の顔が母に肖てゐるといつて人々がわらつた。」
「夕暮に浮ぶ白い道のうへを、その遠くへ彼は高い声で母を呼んでゐた。」
という「谺」の中の詩句には、理由は何にせよ、人々が自分を笑ったことを恥辱に感じたのか、あるいは怒りを覚えたのか、読み取り方は分かれるが、どういう環境にあっても、自分と母は不離一体である感覚が不意にこみ上げて来た一瞬の切情を告げている。
しかしこの感情は、いうなれば甘露の思いである母恋いをうたったものでなく、血の縁(えにし)さえもが、家族や故郷に自分を強くつなぐ核ではないことを自覚した少年のおびえを思わせる。

そのとき、「青い世界地図のやうな雲が地平に垂れてゐた。」のである。
同じく第1詩集『測量船』に収まる「Enfance finie」の中の「雲には地球が、映ってゐるね。」と響き合う表現だと思う。
「Enfance finie」は、漂泊願望を宿命として持っている性への目覚めをうたっている詩であるが、「Enfance finie」と「谺」の二作品は、互いの変奏の形をとって、孤独であるしかありようのない夢源の園への歩みが、いやおうなく、こころの内に始まってしまった悲しみをにじませている。
これは幼くして万人に訪れる感覚とは思えず、天が成したる詩人にのみ賦された早熟な得悟である。舞鶴という異郷に、6歳の達治が行かなければならなかった出来事は、彼の生涯の詩心の方向を定めたであろう。

🌐 シンボリックではなく、センシュアルな母の像をうたった詩

「谺」「鹿」に出て来る母は、いわば手の届かぬ想念の中のシンボリックな母であるが、一方で、いつまでも手に取って慈しめるような、母との美しい思い出がなかったということでもないのは、「谺」から14年ののちに、母との睦ましい具体的な交わりを、達治は「いにしへの日は」という一編の詩にしていることからわかる。
達治は、「いにしへの日は」を収める四十四歳での刊行詩集『花筐』を、代表詩集のひとつと公言しているが、その言に納得できるような、憂いと潤いのある抒情が美しく結晶した詩である。達治の詩の品格がここちよく伝わって来る。

   いにしへの日は
                      三好 達治


   いにしへの日はなつかしや
  すがの根のながき春日を
  野にいでてげんげつませし
  ははそはの母もその子も
  そこばくの夢をゆめみし
   ひとの世の暮るるにはやく

  もろともにけふの日はかく
   つつましく膝をならべて
   あともなき夢のうつつを
   うつうつとかたるにあかぬ
   春の日をひと日旅ゆき
   ゆくりなき汽車のまどべゆ
   そこここにもゆるげんげ田
  くれなゐのいろをあはれと
   眼にむかへことにはいへど
  もろともにいざおりたちて
   その花をつままくときは
   とことはにすぎさりにけり

   ははそはのははもそのこも
  はるののにあそぶあそびを
  ふたたびはせず

 1944 (昭和19) 年 三好達治詩集『花筐』より 「いにしへの日は」全文

🌐 谷川俊太郎の「谺」を読む

話を転じて違う角度から達治の「谺」という詩を眺めてみる‥‥
達治のあとの国民詩人と称されてもおかしくないのはこの人と思う詩人、谷川俊太郎に、同じく「谺」のタイトルをつけた詩がある。
この詩は、1952年の谷川俊太郎第1詩集『二十億光年の孤独』を、三好達治が「ああこの若者は/冬のさなかに永らく待たれたものとして/突忽とはるかな国からやつてきた」と推賞している両者の関係から考えて、谷川俊太郎による三好達治の「谺」へのオマージュであると考えていいだろう。

  谺 (こだま)
                     谷川 俊太郎

 季節は私の知らぬところを走っていて
 私はただ風の音だけを聞いた
 失ったものは風の中で谺し
 絶えず遠さを告げ続けた

 あり余る私の情念を通ると
 世界は青空のような一枚の地図だ
 人は棲まず
 遂には私までも流人になった

 ‥‥誰の留守を私は預かっているのか
 窓の外の蔦の影が私の額に落ち
 それが私の贋の捲毛になる

 陽は私を若い神のように化粧させた
 私は誰の帰りも予期しない
 今は丹念に風の音に耳をすまし
 季節の走り去ろうとするところを知ろうとする

 谺を世界の中に帰してやり
 世界が山や谷をとりもどすのを待っている
                        ー1953-

1955年1月発行 牧野書店 文芸誌「文章倶楽部」第7巻第Ⅰ号 初出

三好達治の没年は、1964年(昭和39年)なので、この詩は達治存命中の発表である。「文章倶楽部」は当時の有力文芸誌であったから、三好達治の目に触れることを意識して谷川俊太郎はこの詩を載せたと思う。二つの詩を見比べると、以下のように文脈が相似形をなす詩句が見られる。

( 以下の引用は、 三好達治   谷川俊太郎 )
「青い世界地図のやうな雲が」 「世界は青空のような一枚の地図だ」
「草の葉ばかりに風の吹いてゐる平野」 「私はただ風の音だけを聞い
  た」「人は棲まず 遂には私までも流人になった」
「しづかに彼の耳に聞えてきたのは、それは谺になつた彼の叫声であつた のか」 「今は丹念に風の音に耳をすまし 季節の走り去ろうとする
ところを知ろうとする」

また、達治の『測量船』所収の「夜」( 下に部分を引用 ) に次の詩句があり、これもまた、谷川俊太郎の「谺」の中の
「谺を世界の中に帰してやり
世界が山や谷をとりもどすのを待っている」
という詩句を導いた抒情感覚ではないかと見えて来る。

 夜  ※一部を引用
                       三好達治

そこで彼はいそいで睡つている星を深い麻酔から呼びさまし
蛍を放すときのようにな指先の力でそれを空へと還してやつた

しかし二度とは地上へ降りてはこないだらうあの星へまで
彼は悔恨にも似た一条の水脈のやうなものを
あとかたもない虚空の中に永く見まもつてゐた

1930 (昭和5) 年 三好達治第1詩集『測量船』所収「夜」より 一部引用 

達治、俊太郎両詩人の「谺」を比較してみると、俊太郎の詩では、母という存在が視野にはない。しかし自ら意図したわけではないのに、昨日までの自分が、はっきりと過去の残像として意識されるときを迎えた喪失感と戸惑いを、二編の「谺」という詩は象徴的詩法でうたっていると言えるだろう。

この感覚をみごとに散文化した文学作品を引き合いにして言い換えれば、両詩人がうたったように、少年は、予期せぬままに唐突に「風の又三郎」を迎え入れ、そして又三郎が運んだ風の中に萌芽した何かを知るのである。

                          令和6年5月           瀬戸風  凪
                                                                                     setokaze nagi


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