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俳句のいさらゐ 🔘🟣🔘 松尾芭蕉 患う自分の姿を詠む

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先ず冒頭に一つの疑問を出そう。
この疑問について調べてはいないのだが、どうも腑に落ちないことがある。貞享3年、芭蕉43歳の春、芭蕉庵で二十番句会を興行していて、今栄蔵『芭蕉年譜大成』( 角川書店刊 ) の記述では、作者が集まる衆議判形式での参加者40名となっているが、深川の芭蕉庵に、句を出した者皆がそこに来ていたのか?
句会そのものはどこかの料亭など、別の場所で行ったと考えるほうが自然ではないだろうか。芭蕉庵に集まったのだとすれば、屋外での野宴に近いスタイルしか想像できない。
それを一例とするのだが、芭蕉の伝記には、さらりと書かれていることがらで、実態が想像しにくく、?と思う記述にしばしば出会う。

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本題に戻る。この二十番句会興行のあった貞享3年、1686年春に詠まれた一句が「煩 (わずら) へば餅をも喰はず桃の花」である。
芭蕉はこのとき江戸の芭蕉庵に在る。
句の意はこうなるだろう。
腹が痛いか、気分が悪いかして、せっかくの花見の餅が食えなかった。ここまでは解釈は動かない。しかし、そこから後は、
餅が食えなかったので、何か物足らない桃の節句であったよ
と言っているのか、
餅は食えなくても、桃の花はそれだけでいい、眺めているだけで満足だ
と言っているのか、両様にとれる句である。後者ととるのが、雅な解釈とは思う。

芭蕉には、この逆意の句もある。
両の手に桃と桜や草の餅」 元禄5年春 芭蕉49歳。
花見の餅が食べられたことを嬉々として詠んでいるふうだ。当然、「餅をも喰はず」と詠んだ6年前の句が浮かんでいただろう。
昔、「餅をも喰はず」と詠んだのだった、という思いがあって、それでは食った方の句も詠んでおこうと遊んでいるのかもしれない。それくらいの遊び心があるのは、芭蕉の全発句を見渡すとわかってくる。

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芭蕉は、51歳で下血や嘔吐を繰り返し、食物が摂れなくなって憔悴した末没したのだが、この43歳の春の句は、まだ8年も前のことであり、その死因につながっている深刻な病気とは思えない。
気分が悪く何も口に入らない、という誰にもある患いだったのだろう。
ただ、この句を見たとき、煩 (わずら) う、の漢字表記が気になった。何か心痛ひとかたならぬ煩悶が当時あったのかと思ったからだ。
そこで伝記を幾種類か調べてみたが、少なくとも私生活上には、そのような事態は見当たらない。むしろ芭蕉の生涯においては平穏と言っていい時期だった。

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しかし、このように不調になる状況は、その前後もときおりあったであろうと思わせるのが次の句である。翌年に詠まれている。
「薬呑むさらでも霜の枕かな」 貞享4年 ( 1686年 ) 11月下旬 『笈日記』

『笈の小文』の旅で熱田にあったとき、門人の起倒宅で胃痛を発病したようで、もちろん起倒が買って来た薬により、痛みが静まって後の日の感懐である。
句意はこんなところだろう。
旅のさ中、急な痛みで薬を飲まないでは耐えられない羽目に陥ってしまった。それでなくとも、冬の旅寝は、枕の冷たさが身にしむというものを、
門人宅で病臥している身は、ひとしおわびしい。

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もう一句は、病気ではないがアクシデントを詠んだ句を挙げよう。
歩行 ( かち ) ならば杖突坂を落馬哉」 貞享4年12月中旬ごろ 無季の句

歩行 ( かち ) なら杖を突きながら転倒することもなかったろうに、馬で行ったためかえって痛い目にあったという後悔の念がちらりと感じられる。杖突坂は実際の地名で、東海道の道筋の中でも急坂。すでに体力消耗を意識していたのではないだろうか。落馬して、そのあと寝込んだという記録はないので、軽い打撲で済んだのだろうけれど。
無季の、駄句と評されても仕方ないと自覚もしていたであろう句を、堂々と残したところに、芭蕉の自己戯画化の遊び心が見える。

芭蕉は、貞享4年夏には約半月の紀行『鹿島詣』の旅をし、秋には、伊良湖に寄るなどしながら、帰郷の途に就く。伊賀上野には12月末に入っている。つまり、貞享4年の夏から年末にかけて、ほとんど旅の空にあったことになる。「薬呑む」も「徒歩ならば」の句も、帰郷の途中の吟である。
さすがに疲れが影響したように見える。しかし貞享3年、4年と、句に残さずにはいられないほどの厄難続きの頃であったと言える。

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翌年の元禄元年 ( 貞享5年、9月30日に改元し元禄元年 ) には、伊勢参りをし、春には吉野に遊び、その足で高野山、和歌の浦、奈良、大坂、須磨、京都、岐阜などを巡り、8月下旬江戸に帰っている。
そして約半年おいて、翌年元禄2年3月には『奥の細道』の旅に出る。上方各地の漂泊はそのトレーニングであったようにも思えて来る。
行くのは今しかない、という焦燥の気持ちに駆り立てられてのことだろう。そこからは、いつ患いで寝込むことになるかもしれないという不安が、心の底に兆していたことがうかがわれる。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
この有名な辞世の句の、「旅に病んで」という場面が、自分の胸中で、切実なものに思われないうちに、芭蕉は念願を果たそうとしたのだ。辞世の句ではあるが、壮年期からつねに心にあった覚悟が、おのずから最期の言葉となって出ていると言える。
                           令和5年5月     瀬戸風   凪
                                                                                                 setokaze nagi
 






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