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俳句のいさらゐ ◍◪◍ 松尾芭蕉『奥の細道』その十。「しほらしき名や小松吹萩すゝき」

🟡 二句一対の構成の句ではないか

石川県小松市の風景 植田の虫塚 1971年刊 「市制30周年記念誌」より

『奥の細道』で、7月24日に金沢を出て小松に着き、7月26日までいた間の句が
「しほらしき名や小松吹萩すゝき」と
「むざんやな甲の下のきりぎりす」である。

別種の趣のように並んだ句だが、この両句は一対の構成になっているのではないかというのが、私の解釈である。
「しほらしき名や小松吹萩すゝき」は、「小松と云所にて」とごく短い前書きがあるだけである。たとえば

  妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに蘿 ( こけ ) 生すまでに
                  ( 万葉集 河辺宮人 228番 )

のように、小松が古来和歌にゆかしく詠まれてきた植物ゆえに、小松という地名がその連想から「しほらしき名」と感じるのはわからないでもない。けれど、あえてこの町にだけ、土地褒めの句 挨拶吟を出したのは妙な感じがする。

小松市の風景 城址本丸櫓台石垣 1971年刊 「市制30周年記念誌」より

🟡 小松とは小松三位中将では

先ず気づくのは、この句のあとに斉藤実盛のことを偲んだ「むざんやな」の句が続くことだ。芭蕉ファンには言わずもがなであるが、芭蕉は源義仲に魅了されていて、ゆかりの人物、斉藤実盛にも心を動かして、この句を詠んだ。
その斉藤実盛を詠んだ句の前に、小松という名を並べた時、私には
小松三位中将
という連想が浮かぶ。小松三位中将とは平氏嫡流の平維盛のことである。祖父清盛、父重盛という直系である。 ( 維盛の父 重盛が六波羅小松第に居を構えていたことから重盛の家系に小松の称がつく )
『平家物語』で小松殿と言えば平重盛であり、その息子だから三位中将の頭に小松が付いて呼ばれる。

なぜ両者が結びつくかと言えば、斉藤実盛は、平維盛の配下にあった有力武将で、維盛を総大将とした源義仲征討の戦いに出陣し、寿永2(1183)年、篠原の戦いで落命しているからだ。
また『平家物語』では、維盛はわが子六代を守ることを実盛の息子二人に頼み、涙を流す場面がある。それほど実盛を信任していた。実盛も、維盛に忠義を尽くし果てた。実盛と小松の家は主従として深くつながっているわけだ。

多田神社奉納の斉藤実盛の兜 1971年刊 「市制30周年記念誌」より

維盛は、都落ちの後、一の谷の陣中から密かに逃亡する。以降は諸説があるが、『平家物語』では船で那智の沖に出て入水して果てる。
実盛の生き方、武士としての忠義の尽くし方に心を動かされた芭蕉は、実盛の主君で、最期は一門を離れひっそりと身を処した維盛を念頭に、「しほらしき名や小松」といい、哀れな最期を思い、たとえば

  帰り来て見むと思ひし我がやどの秋萩すすき散りにけむかも
                ( 万葉集 秦田麻呂 3681番 )

といったイメージで詠まれる「萩すゝき」と付けたのではないだろうか。

「しほらしき名や小松吹萩すゝき」は、この裏の意味がないと、載せる句を厳選した芭蕉の編集態度にはそぐわないと思える。あえて言えばつまらない句ではないだろうか。
たとえば花池という地名があったとしよう。それを「かぐわしき名や花池の山桜」と詠んでいるような陳腐さがありはしないだろうか。

「しほらしき」と「むざんやな」の形容句は、互いに陰影を与えあっていると思う。甲の下で鳴くきりぎりすは「しほらしき」存在であり、那智の沖で入水して果てる平維盛は「むざんやな」と言える人だろう。

実盛にとっては平家に仕える前、義仲の父義賢討ち死にの後、畠山重忠から保護を託されたことがあるわけだから、憎くあろうはずもない木曽義仲と、その義仲を迎え討つ戦いに実盛を最後まで頼みとした貴公子維盛、またその維盛に忠義を尽くした実盛の因縁を思い、多田神社に奉納されている斎藤別当実盛の兜を見た芭蕉の胸中には、しほらしさとむざんな思いという対極の情感が渦巻いていたのであろう。
ゆえに、小松の名に「しほらしき」という形容をどうしても使いたかった、と思うのだ。

🟡 主従の忠義のあり方に心を止めていた

『奥の細道』では、『平家物語』や『義経記』の主従のエピソードが随所に使われていて、主君と家臣の関係、忠義の行われ方に一方ならぬ関心を持っていると思う。例を挙げよう。
◪   笈も太刀も五月に飾れ紙幟
は、藤原秀衡の命を忠実に守り、義経に最後まで従った藤原秀衡の家臣、佐藤継信(次信)・忠信の墓を訪れての句である。

◪ 卯の花に兼房みゆる白毛かな 
は曽良の句であるが、これは源義経を守り討ち死にした家臣増尾兼房のことを詠んでいる。

◪ 夏草やつわものどもが夢のあと
は、義経の薄幸の宿命とともに、義経を急襲し滅ぼした藤原泰衡がたどった悲運をも念頭に置いているだろう。

◪   須磨寺や吹かぬ笛聞く木下闇
というのは、『笈の小文』( 芭蕉45歳『奥の細道』より前 ) に出ていて、この句は『平家物語』の平敦盛最期を語った場面が下に敷かれている。家臣に見捨てられてただ一騎となった敦盛の哀れ。この句につながる思いとして『奥の細道』に出る芭蕉の句が
◪   寂しさや須磨にかちたる浜の秋
であり、かつて訪れた須磨で偲んだ平敦盛のことが念頭にあるだろう。

なお、芭蕉は『奥の細道』では、小松三位中将平維盛については何も語っていないが、1690(元禄3年―『奥の細道』の旅の翌年)刊の門人珍碩 ( ちんせき ) 編による『俳諧撰集 ( はいかいせんしゅう ) で、小松三位中将に因む発想で連句を編んでいる。
 
羅に日をいとはるゝ御かたち  曲水 ( 膳所の門人菅沼曲水 ) 
【意味】
うすものを着て、太陽光を避けながら歩むたおやかな姿。
熊野見たきと泣き給ひけり   芭蕉
【意味】
前句の女性を平維盛夫人と見立てている。熊野に身をひそめたが、源氏の追及に抗しきれず海に身を投げた維盛。夫人は熊野に赴き、その後を弔いたいと泣いておられる。

            令和6年2月                       瀬戸風  凪
                                                                                          setokaze nagi





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