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和歌のみちしば―『万葉集』柿本人麻呂が詠んだ挽歌の謎

🔳 挽歌は公的な死亡診断書の役目をはたしていた?

人麻呂が香久山の屍を見て悲慟して作る歌
草枕旅のやどりに誰が嬬か国忘れたる家待たまくに 
                      柿本人麻呂「万葉集」426

前書きの「香久山の屍」という表現に目が止まる。香久山に常駐していたわけでもない人麻呂が、屍の臥せられている場にたまたま居合わせたと考えるのは、不自然と思える気持ちがある。
香久山という場所は、死の集積場所ではなかったのだろうか。たとえば、次のように想像してみた。

🔹 ① 香久山には、引受人のない行路の病人の終の臥所であった

🔹 ② 香久山は、死者の安置場所でもあった

■ ① ② の具体的推理
都には当然各地からの人々の流入や通過があったはずで、行路の途中で動けなくなる人、そのまま命果てる人も稀なことではなかっただろう。しかし、縁故者も引受人もすぐにはいない重篤病者や死んで遺体となった身を、都の市中に置いてもおけない。かと言って放置もできない。
つまり瀕死の状態にある無縁故者を隔離する場所、また亡くなった場合の安置場所は不可欠だったはずだ。それが香久山であり、「香久山の屍」であったと考えれば、公人への挽歌が『万葉集』に採られているところから判断して、祀りごとにかかわる公務を担っていた人麻呂が、そこで屍を見るのも奇異なことではなくなる。

この歌の場合、前書きにおいても、名も姿かたちも記されていないような死者が丁重に扱われたとは思えないが、少なくとも、「旅のやどりに」死を迎えた者の無念を言霊によって慰謝する営みだけはあって、行旅死した人の鎮魂の意味で、挽歌を添えることが公の務めであったと考える。それはつまり、死亡診断書が発行された効力を持つと考えてもいいのではないか。挽歌が添えられれば、以後は遺体の処置となる。公金によって土葬する人夫を雇ったのかもしれない。

役所としても、記録だけはとっておくことはしていたのだろう。うちの者が帰らないと家族が探しに来ることは、考えられることだ。人間の営みのそういう根本事項は今昔不変であろう。
よってこういう例は、二十や三十ではきかないほど数があったはずだ。「万葉集」426の歌は、その一例に過ぎない。しかし一件ごとに、違う読み振りの歌が作られたとも思えない。この歌と、ほぼ同じの、どこか少し言葉を変えた歌が、詠まれ続けたのだろうと思う。

🔳 聖地だからこそ火葬場所になった?

溺れ死にし出雲娘子( いづものをとめ )を吉野に火葬(やきはぶ )るとき柿本朝臣人麻呂の作る歌二首
山の際(ま)ゆ出雲( いづも )の子らは霧( きり )なれや吉野の山の嶺 ( みね )にたなびく
                     
柿本人麻呂「万葉集」429

八雲( やくも )さす出雲( いづも )の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ                     柿本人麻呂「万葉集」430

この出雲娘子は、吉野で行き倒れたというようなことでなく、死にたい理由があって、死に場所として吉野を選び、わざわざ死にに来ているのではないだろうか。そこで入水して死ぬことが、浮世の身の穢れの浄めか、業病、悪病の苦から、やすらかに解放される術と信じられていたのだろうと推理してみたい。それが叶うのが聖地吉野であったとは言えないか。

戦後を含めて、昭和の半ばまでは、地方においては、土葬は普通に行われていた。土に還る、故郷の山河で永遠の眠りに就く、という思想は奇異なものではない。だだし、聖なる場所にあっては異質なものを混入させることは禁忌であり、一切の俗世的価値観を排除する。これは今日でも不変の原理だ。よって吉野で死んでも、吉野の土の穢れになる土葬は許されない。

しかし火葬により肉体の一切を消し去ってしまうことで、霧だとか雲だとかに姿を映す吉野の霊気と一体になる信仰的感覚があったのではないか。だから吉野で火葬する事に意味があったのだろう。つまり、火葬は聖地であるからこそ持ち込まれた風習であり、土葬よりも精神的な高尚感の強い営みであったと想像する。

🔳 火葬の場で見て詠んだ歌ではない?

そしてここに人麻呂の歌があることについては、次の推測をする。

🔹 ① 自死であっても、死者には吉野においてその死を処理する遺族が背後にいる。死者は具体的な家系や名はあえて伏されて、象徴的な名称として出雲娘子とされているのだろう。あるいは、『万葉集』編纂時に名称の一部を省略しているのかもしれない。
しかし、ごく普通の庶民ではない。正式な葬いが催され、遺族につながる有力者筋からの要請があって人麻呂が挽歌を提供した。これは公務とは言えないだろう。もちろん名義料名目の謝礼が伴うが、それは人麻呂   ( あるいは機関としての人麻呂・挽歌担当部門 ) に とって責められるような事由ではない。

🔹 ② その歌には、詠み振りには対象が誰であろうと当てはまる型があった。人麻呂の名で挽歌を添えることは、富裕な階級の重要な魂鎮め儀式だった。人麻呂の名の力によって、伝えられてゆくことが遺族の望みでもあった。

🔹 ③ 人麻呂は現地吉野には行っていない。葬いの場で然るべき人により、その歌は朗詠された。

🔹 ④ 今日においても死後、「お別れの会」などにおいて、著名な歌人、詩人が挽歌や哀悼詩を発表して別れの辞に替え、会の空気を哀調の文雅なものに飾る習わしがある。 それと似たような性格を持つのが人麻呂の挽歌だっただろう。

🔳 同じ構図の挽歌が繰り返されている

上の推論は、万葉集の連番で言えば、ひとつ前の428番の、人麻呂の挽歌にも当てはまると考える。土形娘子( ひじかたのおとめ )も泊瀬( はつせ )山も、出雲娘子の吉野と同じ構図なのだ。
ただし428番は泊瀬で死んだとは記されていないので、別の場所で亡くなって、火葬のために、いわば指定地である泊瀬山に運んだのだろうと推測する。

土形娘子( ひじかたのおとめ )を泊瀬( はつせ )山に火葬 ( やきはぶ ) るとき柿本人麻呂が作る歌一首
こもりくの泊瀬の山の山のまにいさよふ雲は妹にかもあらむ
                    
柿本人麻呂「万葉集」428

                                                          令和5年9月          瀬戸風  凪
                                                                                               setokaze nagi


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