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俳句のいさらゐ ⊝⊝⊝ 松尾芭蕉『猿蓑』より。「行く春を近江の人と惜しみける」

『猿蓑』に収めれた句は、『奥の細道』の句に現れている、非日常の大きな自然に、高らかで情の濃い精神性を見いだしている句風に比べてみると、市井の生活者であってなお、文雅を味わう意志を持ち続け、そこに生きる愉しみを感じ取る態度から生み出されていると言えるだろう。
その集の中から選んで、句の滋味を味わってみたい。標題の「いさらゐ」はちいさな泉のこと。にじみ出て来る思いを、そんな古語に喩えてみた。

芭蕉は、心の底では江戸を好んでいなかったのかという疑問が筆者にはある。
名声定まり江戸に定住したかと思うと、42歳で伊賀へ里帰りし、その後も江戸にすぐには戻らず、見方によっては「ぐずぐずと」と表現してもいいと思うのだが、奈良・京都、大津・名古屋・木曾路などを経て、やっと戻っている。
その後も江戸にどっしりと腰を落ちつけることなく、伊勢に行ったり、決心して江戸深川の住まいをたたみ、奥の細道の旅に出ている。その時点で、もう江戸に帰る気はなかったのではないかと思えるような旅立ちだ。
そして『奥の細道』の旅を終えて住んだのは、大津の石山寺の西にある幻住庵である。人生最後の住まいは、俳諧の宗匠としての身過ぎの必然性からであろう、江戸につかの間戻ったが、ほどなく病み、亡骸は江戸ではなく、現在の滋賀県大津にある義仲寺に葬るよう遺言して、ついにはそのとうりになった。
いったいに、どこに葬られたいか望む先によって、その人が本当に安らぎを感じていた場所がわかるというものだ。
そういった芭蕉の生涯を下に敷いてこの句を見ると、なるほど芭蕉にとって「近江」が、動かない句だと感じる。「近江の人」と惜しむ最愛の地だからこそ、「行く春」の余情が、ひとしお身にしみるのだ。
また「惜しみける」は、「惜しみけるかも」を当然思わせながら短く言ったかたちであり、「惜しみけり」と切れるより、いっそう余情を残す。その措辞もこの句を深くしている。

そういう芭蕉の個人的な思い入れの強さから生まれた句なのに、その事情を抜きにしても、この句は名句であるところに価値がある。
それは、柿本人麻呂をはじめとして数々の歌に詠まれてきた近江の面影と、かつての繁栄が風土の匂いとして刷り込まれている景観が、雅な、ゆったりとした気分を醸し出すからだ。
「近江」という地名の響きに、文化的な情緒と厚みを与えている古歌の例を挙げよう。芭蕉の脳裏にもこれらの歌がさざめいていたであろう。

けふ別れあすはあふみと思へども夜やふけぬらん袖のつゆけき
                        紀利貞「古今集」
「近江」と「会う身」の二重の意味が「あふみ」に掛かっている。

さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
                        読人不知「千載集」

「千載集」は、平安時代末期に編纂された勅撰和歌集。読人不知となっているが平忠度が作者である。「志賀の都」は、近江大津に7世紀後半にわずか5年のみ置かれた都のこと。「さざ波」は枕詞として「志賀の都」に掛かる。

調べという点から見ても実に響きがいい。
「行く春を」の「を」は長くひいて「をー」と朗吟したいところだが、その伸ばした母音に、「あふみ」(おーみ)とさらに母音で始まる言葉が続く。いかにも鷹揚とした気分が出る。初案では「行く春や」であったが、推敲し「行く春を」と『猿蓑』に採る際に変更している。この推敲が効果をもたらしたと思う。
また、「近江の人」は、現代の発音では、おーみのひと、とそっけないものになるが、近江は、あはうみ ( 淡海 ) が語源という。近江の字は、近つ江の意味をあてただけである。
つまり芭蕉の時代は、( A・FU・MI) と ( О・FU・MI) の表記の中間と言っていいような、現代人のできなくなってしまった発音をしていたであろうし、その発音が「春」( HARU) 、さらには「近江の人」の「人」( HITO) のハ行音がゆるく結びあって、 ( は、ひ、ふ ) のやわらかい音調を聞かせていると思うのだ。

筆者は、行く春の季節に、大津を訪れたことがある。そのとき、この句をつぶやいてみた。筆者には、近江の人はいなかったが、それでも何か季節の名残りがここに極まったというひとしおの旅情を覚えた。
石山寺のそばには瀬田川が流れていて、天気のいい日でもあったので、川水の明るさが空に照り返されているような和みを、天の恵みとして賜っているという気がした。
会話の中に度々出てくるような平易な言葉のみを用いて、これ以上何を言っても、言葉の虚飾にすぎないと思わせる、本質のみを研ぎ出した趣の句である。
                      令和5年3月   瀬戸風  凪
                                                                                                       setokaze nagi


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