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【連載】ちいたら散歩〜コロナ自粛下のジモトを歩く〜(第4回)

⑦静粛の時
 コロナが世間で騒がれ始めてから、買い占めが問題になった。マスク、トイレットペーパー、ティッシュ、キッチン油にパスタ。週末に外出制限が出されるようになってからは「巣ごもり」のため、お菓子やお酒も店棚から消えた。
 週末は、本屋も閉め出した。もはや行けるところ、ひと呼吸をつける場所は、寺や神社しかない。

 同時に、これまでは関心が向かなかった道端の「石」=地蔵や庚申塔(こうしんとう)が、とても大切なモノに見えてくる。近づいて、誰が建てたのかと覗いても、たいていは「××村講中」としか刻まれていない。
 誰のものでもないモノ。自分のモノだと占有出来ないモノや場所。歴史家の網野善彦が「アジール」という概念を展開した名著『無縁・公界・楽』をジモト歩きと並行して読み返していた。

 コロナのような「非常事」のとき、最後に人を受け入れてくれるのは(精神的な意味を含めて)等覚院のような寺社仏閣か、それに準ずる地蔵や庚申塚である、というのは言い過ぎかも知れない。しかし、境内には自粛警察という粛清的な言葉とは真逆な「静粛の時」が流れていた。
 
⑧向ヶ丘遊園跡
 ジモト歩きのなかで、もう一つ、気兼ねなく佇(ただず)んでいられる場所を見つけた。それが「向ヶ丘遊園跡」の廃墟である。ただし、柵で囲まれているので、なかには入れない。柵の向こうに拡がる「無縁/無主」の世界に思いを馳せる。

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 向ヶ丘遊園は、1927年から2002年まで営業していた。スケート場があり、幼い頃行った覚えがある。運営元は小田急電鉄。その広大な敷地を電鉄会社に売却したのは、等覚院の檀家をつとめるような長尾の「豪農」たちだった。

 長尾の「豪農」として知られる人物に、井田文三(いだぶんぞう)と鈴木久弥(すずききゅうや)がいる。井田家は鎌倉時代にも遡れる旧家で、ともに江戸時代から名主をつとめる家柄。とりわけ幕末から明治初期に手腕を発揮し、地元の名望家として成長を遂げた。
 彼らは、自由民権家としてさかんに政治活動に取り組んだが、とりわけ鈴木久弥は(初代・2代目ともに)実業界でも成功を収めた。成城学園の敷地はすべて鈴木久弥が持っていた土地であるといい、向ヶ丘遊園の土地は井田文三の「同志」である井田啓三郎の土地だった。

 井田や鈴木の親世代にあたるマルクスは、『経済学・哲学草稿』のなかで「封建的な土地所有は、どんなに紆余曲折の道をたどろうとも、結局は、分割へと向かうか、資本家の手に落ちるしかないのだ」と予言した。豪農から私鉄資本に土地所有が変遷した長尾は、マルクスの予言にぴたりと適合する。
 しかし、「資本家の手に落ちた」土地がその後どうなるかまではマルクスの時代には分からなかった。遊園地は廃墟となり、「無縁/無主」の土地に成り果てている。
 廃墟というつかの間の「静粛の時」は、まもなく終わるだろう。跡地には、温泉やグランピング場を有した「人と自然が回復しあう丘」をコンセプトにした再開発が2023年を完成目処に始まるからである。

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 いましか見れない風景や音のなかで佇む。コロナ自粛でふと生まれた「隙間」に、「無縁/無主」となった遊園地跡に吹く風のことを、網野先生なら「中世の風」と笑っただろうか。叛乱は「『原始』へのさまざまな形での復帰を原動力とする」(網野善彦『増補 無縁・公界・楽 日本中世の自由と平和』p.249)。ポスト・コロナの時代には、どんな風が吹いているのだろうか?

【執筆者プロフィール】
高原太一(たかはら・たいち)

東京外国語大学博士後期課程在籍。専門は砂川闘争を中心とする日本近現代史。基地やダム、高度経済成長期の開発によって「先祖伝来の土地」や生業を失った人びとの歴史を掘っている。「自粛」期間にジモトを歩いた記録を「ぽすけん」Noteで連載中(「ちいたら散歩 コロナ自粛下のジモトを歩く」)。論文に「『砂川問題』の同時代史―歴史教育家、高橋磌一の経験を中心に」(東京外国語大学海外事情研究所, Quadrante, No.21, 2019)。

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