太陽とみかん5
「八郎は初めて見る器、必ずそうやって見るなあ」
それは、幸太郎と2人で食事をしているときに、八郎を見ながら、面白いものを見つけたように幸太郎が言った何気ない一言だった。
どうやら、八郎自身も気づいていなかったのだが、器を前にすると、必ず両手に取り、横から、下から、斜めからしっかりと観察をする癖が、八郎にはあるらしい。
「その後、必ず笑てんねん、八郎。いい顔してるんや。好きやねんな、器がっていつも思ってた」
好き
単純な2文字、保育園児でも知っている2文字。
ぽちゃん
その2文字がいま、八郎の中で音を立てて、自分の中に落ちていった。
そうだ。
僕は、器が、陶芸が好きなんだ。
なんでこんなシンプルなことに気づかなかったんだろう。
兄に聞いたことがある。
みかんは、とても手がかかる。その手間をなぜ、当然のようにかけるのか。
「そりゃ、美味いみかんを作りたいからやろ。それ以外に何がある?
あとは、この一面にオレンジ色のみかんが成る、その様が好きやからや。それを見たいがためにやってるのもあるな。みかんが色づくと、毎年ワクワクする。この歳になってもや。不思議やけどな」
好きなものというのは、形が無いことが多い。
だから、その形の代わりに、ワクワクやドキドキなど、気持ちで表すことが多い。なので、不確かすぎて、つい忘れてしまう。
特に、年齢を重ねてくると、その「好き」に条件やしがらみがついてくることが多くなってしまい、「好き」の気持ちが埋もれてしまう。
「そっか…僕は、好きなものにずっと触れていたんや」
自分の気持ちの拠り所を見つけた八郎は、その日興奮して眠れなかった。
次の朝、兄、和徳に八郎は自分の気持ちをゆっくり話した。
京都でがむしゃらになり過ぎて、自分を見失ってしまったこと。
愛媛に来て、みかんの世話をするうちに、空が青い事、みかんがオレンジになる、そういう当然なことに気づけるようになった。
だけど、そのためには、色々手を加える必要がある。また、みかんのひとつひとつ、同じようで微妙に色も違う。手をかける事と、お天道様に当たる事で色が変わってくる。
それが当然だけど、当然じゃないってことにも気がついた。
当然じゃ無いことを当然のように行うのは、好きという気持ちが根底にあるからだ。兄さんには、それがある。
じゃあ、僕の好きはなんだろう、そう考えたときに、自分にはやっぱり陶芸しかない。ということに気がついた。
あんな辛い思いをしたけど、なかなかやめられない。妄執かも知れない。けど、それも自分だから、受け止めて生きていく。
まだ土を触る事はできないけど、元々好きだった釉薬の研究を行って、広がる色の世界を見つけていきたい。
今まで、触れられるものだけを信じてきた。でもそうじゃなかった。目に見えない色んな力で自分は生きてる。好きっていう気持ちがある。それがあるうちは、陶芸に関わる仕事をしたい。
今まで本当にありがとう。こんなポンコツな弟を支えてくれてありがとう。
ここのお天道様とみかんが、僕を導いてくれた。
八郎は、深々と頭を下げた。
「やっと見つけたか」
八郎の言葉を聞いた和徳は、そう言って笑いながら、八郎の肩を叩いた。
隣で聞いていた典子は、涙を拭っていた。
八郎は、つてを頼って名古屋の会社で釉薬の研究を行うことにした。
旅立ちの前に3人で集まろう、と幸太郎と優子と集まった。いつもと同じようにどうでもいい話しで盛り上がり、別れた。彼女の家に行くんだという幸太郎が先に帰り、八郎は優子を送って行くことにした。
「ねえハチさん、あのベンチで少し話さない?」
最近できた公園のベンチに座り、2人は肩を並べた。
「苗間さんにはお世話になったなあ。
個展行ったとき、僕の十代田って苗字見て、カッコいいって言ってくれたんだよ。覚えてる?あれで、僕、救われたんや。ほんま、ありがとう」
そう言って、優子の方を向くと、優子は大きな目から、涙をポロポロ流していた。
「え?ごめん。僕なんか悪いこと言った?」
優子は黙って首を振る。
焦りながらハンカチないかな、と八郎がポケットを探っていると、顔をぐいっと掴まれ、優子がキスをしてきた。
驚き過ぎて、八郎は固まってしまった。
そんな八郎の反応が優子には面白かったのか、さっきまで泣いていたのに「ふふふふふ」と笑い出した。
「やっぱり、キス、返してくれないんだね。
ハチさん、私の気持ちに気づいてなかったでしょ。」
そう言って優子は八郎から少し離れた。
「旦那の呪縛から解き放ってくれた時から、ハチさんは私の中で特別だった。私は悪く無いんだよって言ってもらえて、幸せだった。
それに、実直で奥さん一筋のハチさんが好きだよ。こんな男の人いるんだって思って、すごく惹かれた。
でも、私も幸せになりたいから、振り向いてくれない人とは、ここでバイバイだね」
優子は涙をポロポロこぼしながら笑っていた。
「……ありがとう、優子さん」
八郎はそっと言葉をかけた。
「あ、名前で呼んでくれた……。……最後やから、わがまま聞いて?前みたいに頭ポンポンってしてくれる?」
八郎は躊躇いながら優子をゆっくり自分に引き寄せ、やさしく頭をポンポンとした。
「こう?」
「なんでこういうときに聞くの。ええねん、ハチさんの思うポンポンでええの!……………でな、しばらくこのままでいさせて」
八郎は優子のリクエスト通り抱き寄せたまましばらくいたあと、ゆっくり話し出した。
「優子さん、ホンマ、ありがとう、ありがとうな。優子さんがいたから、僕、名古屋に行くこと決心できた。あなたに出会えて、僕は幸せでした」
八郎は、抱き寄せたまま、自分の顔の下にある優子の頭に、そっとキスをした。
街灯が消えた公園で月明かりだけが2人を照らしていた。
一年後、八郎は名古屋で仕事をしていた。
電気釜の蓋を開ける。
今日はどんな色を見せてくれるのか、八郎はワクワクしていた。
うまく行く日も、行かない日も、すき、という気持ちは衰えない。
この気持ちをぎゅっと抱きしめて、無くさないように、生きていく。
「さて、宝箱、オープンや」
八郎は、今日も、『好き』に囲まれている。
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