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八郎、ミカン畑と空白の13年の謎~スカーレットノベライズ「水橋あとがき」から読み解く

★はじめにの前に・・・

NHK朝の連続テレビ小説「スカーレット」の八郎(松下洸平)のことを理解するために、ノベライズ本を読んで考察しました。そのノベライズの下巻に、スカーレットの脚本を書いた水橋文美江さんが「あとがき」を寄せておられ、その内容が衝撃だったと考察の最後に私は書きました。
それは、スカーレットのドラマの中で描かれなかった八郎の13年間の謎の手掛かりとなる内容でした。八郎の生きざまを理解するには、この「あとがき」をさらに考察するしかないと私は考え、2020年4月28日にTwitterにアップしました。その記事をnoteに再掲します。
全国の八郎ファンの皆さまに捧げます(*˙˘˙*)/♡

【この記事の前の、「八郎沼の視点でみるスカーレットの世界観~ノベライズ本で補完した考察」も併せてお読みください。最後にリンクあり】

【ネタバレあり】

★ロケに使われた信楽の坂道 ↓

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1,はじめに:「ミカン畑の八郎」の衝撃

八郎は、陶芸からいったん離れ、愛媛のミカン畑で働いていた――
スカーレットの視聴者、特に八郎沼の住人の方は、このようなことがにわかに信じられるであろうか? しかし、これは脚本家の水橋文美江さんが考えた設定だった。
スカーレットノベライズ下巻に、水橋さんは「『スカーレット』こぼれ話いろいろ~あとがきにかえて~」と題して書いておられる。かなり興味深い内容なのだが、信楽を出てからの八郎がどう生きていたかについての記述が特に衝撃的だった。
下巻が発売された後、私は上下巻を読んでドラマ全体の考察を書いた。スカーレットに関して自分の思いの丈を記し、ピリオドを打ったはずだったのだが、水橋さんの「あとがき」の八郎の部分がひっかかっていた。そして、しばらく考えているうちに、私の中で新たな八郎像が見えてきた。八郎の人生は果たして幸せだったのだろうか? それを考えてみようと思った。

★スカーレットノベライズ本。下巻には水橋さんの「あとがきにかえて」が収録されている ↓

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2,信楽を出てからの八郎

八郎が信楽を出て以降、喜美子に再会するまでの13年間。ドラマの中では、信楽→京都→愛媛→名古屋と転々としたことが語られているが、なぜ転々としたのか、どのような生活を送っていたのかは一切描かれていない。ドラマでは、「陶芸を休んでいる」と八郎が語ったため、ショックを受けた視聴者は多かったと思う。そしてかえって謎が深まった。
武志が亡くなった最終回のラストシーンでやっと、八郎は陶芸を再開することを喜美子に伝えた。長崎に行き卵殻手という磁器を学ぶと言い、多くの八郎ファンがホッとしたことだろう。
しかし、ドラマの終盤は、喜美子と武志が物語の中心だったため、再登場してからの八郎の描写は極端に少なかった。八郎が名古屋でどう暮らしているのか? 再婚はしていないのか? そもそも陶芸をなぜ「休んでいる」のか? 最後まで謎のままだった。

信楽を出たとき八郎は35歳。陶芸展で金賞も取り知名度も出て、陶芸にまつわる仕事を続けることは可能だったはずだ。芸術で食べていくことができる人など一握りしかいないのに、それを八郎はできた。創作に悩みつつも高級和食器を作るという自分の道も見つけていた。
信楽を出ても、釉薬を活かした陶器や釉薬の研究など八郎らしく陶芸に向き合うことが実力的にはできるはずだった。京都は、柴田さんの紹介で行った陶磁器研究所勤務だった。そこまではドラマの中でも明確だった。
名古屋では中部セラミックの会社員という設定で、信楽にもいつもスーツ姿で現れていた。中部セラミック・・・何の会社だろうか。セラミックというのだから陶磁器を扱っている会社で研究職に就いているのだろう、などと私は想像した。
そして、ドラマで全く描かれていないのが、愛媛時代だった。これは、ノベライズでも描かれることがなかった。愛媛といえば砥部焼が有名である。京都は信楽から近すぎる。信楽からもっと離れた地で陶芸を続けていたのだろう。そう私は考えていた。

3,心が折れてしまった八郎

ところが、ミカン畑である。水橋さんは、スカーレットノベライズ下巻のあとがきで、八郎はいったん陶芸から離れる。兄が移り住んでいた愛媛のミカン畑で働く・・・という設定にしたと書いておられるのだ。
この設定は、脚本には書かれなかったが、打ち合わせで内田プロデューサーに伝えてあったので、制作陣には周知だと水橋さんは思っていたとのことだった。
しかし、八郎を演じた松下洸平さんにはミカン畑の設定は知らされることがなく、八郎は愛媛でもずっと陶芸に向き合い続けていたと思って演じてきたという。水橋さんからひょんなきっかけでミカン畑の話を聞いたとき、洸平さんは冗談だと思ったとのことだった。

あとがきのこの部分を読んだとき、私はしばらく考え込んでしまった。そして、私が思い込んでいた八郎像をいったん捨てて、愛媛に行ってミカン畑で汗を流していた八郎に想いを馳せてみた。
すると、これまでとは違う八郎の姿が浮かんできた。そして、スカーレットの終盤で再登場した八郎のありようが、少し理解できたような気がしたのだ。

水橋さんの設定による八郎は、以下のようなものなのだろう。
八郎は、穴窯で開花した喜美子の才能を目の当たりにして圧倒され、信楽を出た。そして京都陶磁器研究所に勤務した。そこで、釉薬を極めようとしたり、自分なりに陶芸に向き合おうとしたのだろう。しかし、向き合えなくなってしまった。心が折れてしまったのだ。
喜美子に感じた敗北感、挫折感。プライドなど一言では語れないほど大切なものを、喜美子にこてんぱんに打ち砕かれた。自暴自棄になってもおかしくない。
器を使ってくれる人の笑顔が見たいのだと、あんなに好きだった陶芸なのに、作れなくなってしまった。自信を喪い、どうしたらいいのかわからなくなってしまったのだろう。

八郎は抑うつ状態になったのだと私は思った。死にたくなるほど苦しくて、生きていくためには、陶芸から離れるしかなかったのだろう。
抑うつ状態のとき、自分を苦しめている事柄や対象から少し離れることは、治療的にはよくあることだ。しばらく休養して心のリハビリをすることが肝要なのだ。愛媛に行ってミカン畑を手伝うことは、八郎にとって、心のリハビリになったのだろう。
そして、何年か陶芸と離れた生活をしてみたからこそ、改めて自分は陶芸から離れられない、離れたくないと感じたのだろう。また何らかの形で陶芸に携わりたいと思い、今の自分にできることを探したとき、中部セラミックへの就職という道が見つかったのだろう。それでもまだ、八郎自身がろくろを回すことはできなかった。

★洸平さんのインスタグラム。武志役の中須翔真くんに陶芸を教えている。微笑ましい父子(*^^)v ↓

4,新しい恋よりも心の支えは武志だった

ところで、八郎はとにかく素敵だったので、正式に離婚して十代田八郎に戻ってからは、周囲の女性が放っておくわけがないと私は思っていた。喜美子とのことで傷つき愁いを帯びた八郎。陰があるものの心根が優しくつい人に親切にしてしまう八郎。しかもバツイチとなれば、モテまくっていたはずなのだ。たとえ八郎が鈍感で人の好意に気付かなかったとしても。

私は、八郎がいっそのこと他の女性とつきあってくれていたらいいなと本気で考えていた。その方が自然だと思った。父親として武志のことを気にかけ続けるのはわかるとしても、離婚した後も喜美子のことを思い続けるのはリアルではなくファンタジーだと思った。
八郎には自身の幸せをつかんでいてほしかった。ただいまと言ったらおかえりと言ってもらえるような普通の幸せな家庭を築きたいと、結婚前に八郎は喜美子に言っていた。その夢を、他の女性と叶えてくれていたらと願ったのだ。
八郎が幸せであれば、それで私は良かった。

しかし、愛媛に何年居たのかはわからないが、心が折れているときに他の女性から好意を寄せられても、八郎が応えられないのは当然だろう。自分のことで精一杯なのだから。
また、中部セラミック時代の八郎も、心のリハビリの終盤でリワーク(復職)に必死だったと思われ、これまた他の女性とどうこうする心の余裕などなかっただろう。
いや実際は、自分が弱っているときに誰かに優しくされたら、頼りたくなる人は多いのだ。しかし八郎はそういう人ではないだろう。
本当は、弱っている八郎を精神的に支えてくれる人が誰かいた方が治療的には良かったと思うのだが、不器用な八郎は、自分に向き合い陶芸に向き合うことで精一杯だったと思われる。

一方、川原家を出てから、八郎は最愛の息子・武志に手紙を送り続けている。このことは、新しい恋よりも、八郎の大きな支えとなっていたのだろう。
喜美子のことを思うこともなく、かといって他の女性と特別に親しくすることもなく、武志に手紙を書き続け、目の前の仕事に必死に取り組み、徐々に自分らしさを取り戻していったのだろう。
そうして年月はあっという間に流れた。このように考えると、八郎が再婚しなかった理由がわかるような気がするのである。

精神的に少し大人になった喜美子から「新しい関係」を提案されたとき、八郎は武志に会いたかったし、喜美子とこのくらいの距離ならばちょうど良いと感じたのかもしれない。
そして、武志と頻繁に会うようになった八郎は、武志に請われてろくろを回した。ろくろを回すには、喜美子ではなく、武志の力が必要だったのだ。

★かわはら工房と穴窯。旧信楽伝統産業会館「スカーレット展」で撮影 ↓

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5,苦労続きの八郎の人生

八郎の人生を振り返ってみる。両親を早くに亡くし、戦争で苦労して、京都の美大を卒業し、信楽の丸熊陶業という大きな会社に請われて入り、陶芸家として新人賞を取り、喜美子と結婚し独立、かわはら工房設立。武志という可愛い男児に恵まれ、陶芸展で金賞を受賞。銀座で個展を開くまでになった。33歳。この頃が絶頂期だったのか――
そこから、信楽を出て転々とし陶芸から離れた。再び陶芸に関する仕事には就いたが、実際に焼き物を自分で作っているわけではない。
最愛の息子を病で失い50代になってからやっと、もう一度自分で作品を作ろうという気持ちになり、長崎に行って修行をする。

これは、なかなかハードな人生である。30代40代の約20年間。一般的には働き盛りの時期であり、実際に喜美子はこの間に陶芸家として名を成し多くの作品を生み出した。
私ならば、八郎のような人生には嫌気がさしてしまうだろう。投げやりになってしまったかもしれない。自己嫌悪になり、自分を恥じて息子に会いに行くことなどためらったかもしれない。
八郎の人生が幸せだったとは、とても言えないような気がする。しかし、洸平さんが演じた八郎を見ていると、不幸には見えないのだ。

★八郎の釉薬調合などの研究ノート。旧信楽伝統産業会館「スカーレット展」で撮影 ↓

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6,松下洸平が作り出した八郎

先述したように、洸平さんは、「八郎はずっと陶芸に携わってきた」と思って八郎の役作りをして演じていた。
水橋さんの設定を洸平さんが知っていれば、もしかしたら、再登場したときの八郎をもう少し陰のある人物として演じたかもしれない。陰がある八郎もきっと魅力的だっただろう。そして物語の展開としては、そういう八郎の方が合っていたのかもしれない。
しかし洸平さんは、八郎を、陶芸から逃げずに向き合い続けた強い人だと信じて役作りをしていたので、八郎に陰はなく、卑屈さも後ろ暗い様子もなかった。八郎の目は真っ直ぐで、瞳には力が宿っていた。

洸平さんは、スカーレット放送中のインタビュー等で繰り返し、「八郎は喜美子を愛し続けます」と語っていた。ファンへのリップサービスかとも思ったが、洸平さんが役作りをした八郎は、そうだったのだろう。喜美子の才能に打ちのめされても卑屈になることなく、陶芸からも逃げず、遠くから大切な人たちのことを思い続けたのだろう。最後まで愛と優しさにあふれた人であった。
スカーレット放送中はこのような八郎の人物描写がわからなくて、終盤の八郎のことがよく理解できなかった。ドラマの卵焼きのシーンでは、八郎の台詞が大幅にカットされていたこともあり、武志に八つ当たりされて言われっぱなしの八郎が不憫でならなかった。
しかし、違ったのだ。八郎は、私が想像する以上に強い人だった。そしてそれは、脚本にはない、洸平さんが作り出した八郎だったのだ。

陶芸に向き合い続けていると、喜美子にはかなわないという思いを抱き続けて生きることになるわけで、それはとてもつらいことだろう。喜美子に再会するためには、自分のさまざまな負の感情を、飲み込んで、押し殺して、柔和な笑顔として表現するしかなかったのだろう。それが、ドラマで垣間見えた菩薩のような笑顔、すべてを昇華させた笑顔だったのではないだろうか。

★八郎のオールアップの日の洸平さんのインスタグラム ↓

7,おわりに

以上のように考えると、八郎の人生とは、必ずしも不幸ではなかったのかもしれない。
平凡で幸せな家庭を築くことはできなかったが、50代になって尚、挑戦し続ける。八郎の人生はさらに展開してゆくのだ。
喜美子がそばにいなくても、八郎は自分の人生を歩いていける。距離は関係ない。むしろ寂しさを感じているのは、信楽に一人残された喜美子の方なのだろう。
あらためて、八郎はすごい人だと思った。主役の喜美子よりも、人として数倍優れていると思う。

ここまで考えが至り、私はやっと終盤の八郎のことが少し理解できたように思った。八郎を、心から誇りに思うことができた。
そして何よりも、八郎の人となりを解釈し、役作りをし、八郎の人生を演じ切った洸平さんが素晴らしかった。

それでも・・・
「八郎さん。あなたは喜美子に負けたのではない。あなたはあなたのままで十分素晴らしい」

穴窯の前で立ち尽くす彼に、私はそう声をかけてあげたかった。
スカーレットの中でもきっと誰かが・・・信作あたりがそっと八郎に声をかけてくれていたと信じたい。

★洸平さんのインスタグラム。信楽のタヌキとともに ↓

★上の写真と同じ場所で撮影しました(^_-)-☆ ↓

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★余談:八郎を心の宝箱に・・・

余談ですが、私は先日、やっと信楽を訪れることができました。旧信楽伝統産業会館に行き、「テレビドラマの世界~スカーレットの舞台 甲賀市信楽~」(スカーレット展)を見たり、ロケ地を行ける範囲で回りました。八郎に思いを馳せ、泣いて泣いて、泣きました。
私はスカーレットで洸平さんを好きになりました。洸平さんをスターダムにのし上げたスカーレットですが、ドラマのなかの八郎の扱われ方に私自身がひっかかりを感じていることが残念でした。その後、洸平さんの舞台を観に行き、ライブにも行き、生の洸平さんに何度も会って、私自身が八郎と少しずつ距離を取ることができるようになってゆきました。
そして、信楽に行き、坂道をゆっくり歩きながら、いたるところに居るタヌキに挨拶をしながら、スカーレットの余韻に浸りました。泣きながら、心のトゲが溶けてゆくのを感じました。
スカーレットの放送終了から1年経った今日、スカーレットに関する記事を2本、noteに書きました。
大好きな八郎を、私の心の宝箱にしまう作業はこれで終了です。
おつき合いいただきありがとうございました。
╰(*´︶`*)╯♡

★旧信楽伝統産業会館で「スカーレット展」開催中です ↓

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★この記事の前の、「八郎沼の視点でみるスカーレットの世界観~ノベライズで補完した考察」もぜひ併せてお読みください! ↓



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