二人三脚〜最愛サイドストーリー〜
彼女は私の前にいつの間にか現れて、そのうちに当然の様に私の生活に入り込んでいた。
それは、長野の山奥で暮らし始めてもう少しで10年が経とうとしていた頃だった。
彼女は、近所に住む私より10歳ほど年下で、島野さんと言った。島野さんの家で雇っている外国人労働者の労働環境や永住について相談を受けたりするうちに顔見知りになった人だった。
ある日、新しい相談を受けていた。
島野さんの家で雇っている若い女性が、戸籍がない事が判明したのだと。女性は実は結婚を考えているが、戸籍がないのでどうにもならなくて困っているのだが、どうすればいいのか?
といった相談だった。
私は島野さんとともにその問題解決に向けて多方面と調整をし始めた。
「とても愛情深い子なの」
ある日、島野さんはそう言った。
「彼女ね、タイのお母さんが突然帰国しちゃって、1人取り残されちゃったの。その後施設で暮らしながら、学校は何とか周りの支援者のおかげで通うことができたんだって。
でもね、苦労しただろうに、お母さんのことは絶対悪く言わないの。
今回結婚を考えてる人のことも、ただパートナーとして暮らすことも選択できたけど、そこはやっぱりお互いの事にしっかり責任を持ちたい。家族になるってことは、責任を持つってことだと思うから。お互い何かあったときに、支え合いたいから、しっかり籍を入れたい。って。
私、その言葉聞いたとき羨ましくてね。
私は、そこまでパートナーとの未来を見据える事ができず、結果離婚しちゃったから。
だから、彼女の事を応援しているのかもしれない」
私は、女性の事を「うらやましい」と言う島野さんの視点に少し感動していた。
そして、戸籍を手に入れると言うことはかなり大変なことで、それをただの従業員のために、その苦労買って出る島野さんの方がすごいよ、と感心していた。
それから私は少しずつ島野さんに興味を持ち始めて話をするようになった。しっかり話してみると島野さんの話は私の予想を超える返しをしてくる事がわかった。
言葉を扱う仕事をしている私は、会話の流れをある程度予測しながら進める癖がある。それなのに、そんな予想を覆した返事をしてくる。
そんな会話が面白くて、島野さんといると自然と笑顔があふれた。
だけども、笑っている自分に気づくと、もう一人の自分がそれを戒めるようにして、雪の中に潜るようにした。
それが楽だったからだ。
「賢一郎君って、ほんと、魅力的な人よね」
ある日、島野さんに言われた。
「その笑顔で話をされると、すっごく安心するのよね。包まれている感じがするし、何かお願い事をしても揺らぐことがないじゃない。絶対だめだって言わない。やってみてダメだったことはダメだっていうけど、必ず次の解決方法も提示してくれる。優しさが底抜けなのよ」
あまりにも褒められてしまって私は嬉しい反面、罪を重ねてしまっているような気がした。
「あなたが思っているより、私は悪い男なんですよ」
自分にも、島野さんにも釘を刺すように言った。
「なに?悪いことしたの?泥棒?泥棒なら、もう、してるわね」
「え?」
ほらきた。島野さんはこうやって予想外の答えをする。
釘を刺したつもりが、私はワクワクしてしまった。
「私の心」
またしても、予想外の言葉だった。
「………はあ」
「ちょっと!あーーもう!渾身のセリフに対して、はあ?ですか?もう、やんなっちゃうなぁ」
そう言って島野さんはケタケタ笑い出した。
私は笑って良いものかわからず、でも、何となく笑い始めた。
「……それ、カリオストロの城ですよね」
島野さんが目を見開く。
「もう!わかってたんじゃない!賢一郎くん、意地悪なんだから!」
島野さんは怒って私の肩をペシペシ叩いた。そしてその勢いのまま、私に抱きついた。
「え?ちょっっと」
私は困惑してしまい、ただ、固まってしまった。
「いいの。少しだけ、このままでいて。
でね、さっきの話、あれは本当。私、盗まれたよ、心。賢一郎くんに」
暫くして、体を剥がした島野さんが満面の笑みで私と同じ目線になった。
「いい?ワタシ、宣戦布告します。
オバさんの恋はもう止まりませんから。覚悟して。いろんな手を使って、賢一郎くんを落としますから、覚悟してください」
そう言って、バイバイと手を振って彼女は帰っていった。
一人取り残された私は、この感情の処理がわからなくて、暫くフリーズするハメになった。
宣戦布告?
なんだそりゃ。
私は魅力的ではないと言ってるのに、あの自信はどこから来るんだろう。
そう思ったら、自然に笑っていた。
やっぱりあんな人に出会った事がなかった。
今までも好意を寄せてくれた人はいた。
だが、私は人を幸せにすることが苦手だ。
赤外線センサーを避けるように彼女たちをかわすようにしてきた中で、次第に誘惑のプログラムというものがあることに気づいた。
理論派の私は、そのプログラムに組み込まれなければ大丈夫だという確信を持って行動していた。
でも、島野さんは違った。
いとも簡単にそのプログラムの外から攻めてくる。
予測がつかない。
彼女は思い通りにならない。
それが楽しい、と気づいた。
彼女といると心が踊った。
全身の血管の循環が良くなるような感覚で、体温が上がるのがわかった。
それと同時に、私の背中にのし掛かる黒い影が呟く。
オマエハヒトヲアイスルトロクナコトガナイ。
マモルマモルトイッテ、ケッキョクニゲダシタ。ジブンノシタコトカラ、メヲソムケタ。
ソンナオマエガ、ココロオドルアイテヲミツケルナンテ、トンデモナイ。
黒い影は、目を光らせて、私を常に監視していた。
私の愛は、人を追い詰める。
0か100か。
振り切るか、動かないか。
だから、渡辺明さんの事が許せなかった。
そして、あんなことをしてしまった事よりも、創薬事業を成功に導くことを優先させた私の愛の方向が恐ろしかった。
私は、自分に畏怖の念を抱いている。
自分の存在が怖いのだ。
愛を貫いた先にある、闇黒の世界で蠢く言葉。
私はその闇黒の世界から目を背けるように、一年の大半を白い世界で覆われるこの土地に住み着いた。
どこまでも、逃げる姿勢しかなかった。
島野さんは、私の白い世界を象徴する人だった。
憧れだった。
彼女に強烈に惹かれていることは自覚した。
だが、ここまで逃げてきた自分は、逃げ切ることにしよう。
そう決心した。
私は島野さんに自分が犯した罪の話をした。ブラックボックスを開ける覚悟をしたわけではなく、
この話をする事で、彼女を遠ざけ、この地を去ろうと思ったからだ。
逃げ切るためのカードを切っただけなのだ。
怖がって欲しい。軽蔑して欲しい。私はあなたに近づいてはならない人間なのだから。
そう思いながら島野さんを見た。
だが、島野さんは私の手を握って涙を流した。
「すごいね。なんか、羨ましいよ」
そう言った。
え?羨ましい?
なぜ?
あまりの予想外の言葉に私は戸惑うしかなかった。
「賢一郎君はそれだけその家族のことを思ってたってことでしょ?守りきろうとした訳でしょ?
私には出来ない。絶対できない。道徳的にできないんじゃなくて、相手にそこまで自分を委ねることができない。
その笑顔にすごく間口の広さを感じてたんだけど、そうか。そういう事だったんだね。
今までずっと、1人でその思いを抱えてきたんだね」
島野さんは、私の手を握る力を強めた。
「そうじゃない。そうじゃないんです。
私の相手を思う思いは、0か100なんです。100になってしまうと何をするかわからない。
私は自分が怖い。
だから逃げるんです。ただの、ずるい人間です」
島野さんに握られた手から温かい感情が流れてきて、私はつい、本音を少し漏らしてしまった。
自分が怖い。
そんな自分を認めたくないから、逃げる。
それを認められなかった。
「それにさ、0か100かなんて無理に決まってるじゃない。絶対無理。だから躓くんでしょ?
でもさ、100やろうとするってことは、ゴールが見えてるってことでしょ?
そうすれば、1動けば、後は100まで転がっていくものよ」
私は宥められるようにそう言われた。
確かに
私は今まで、100にならない自分が嫌で、でも、100に向かってしまう自分も嫌だった。
1の自分を見ていなかった。つまり、スタートラインを見ていなかったのだ。
ありもしない未来ばかり見据えて漕いで漕いで、走って走って、漆黒の世界で1人叫んでいた。
そうか、私は足元を見ていなかったのか。
「でね、その1動く時、二人三脚なら楽しくない?」
島野さんは、私の目をしっかり見てそう言った。
とても、とても美しかった。
凛としているとはこう言う事なんだ。そう思った。
それから私達は沢山話をした。
今までの事、これからの事、これからしたい事。
「賢一郎君が答えを出すまで私は見守ってる。でもね、賢一郎君は罪を償う事が怖いんじゃ無い。そう言う人じゃ無い。その先に見える何かを見つけたいんだよね」
私はこの島野さんと言う人との出会いを心の底から嬉しいと思った。糸が編まれて強い紐になるように私たちの絆が強くなるのがわかった。
そんな時、宮崎さんが私を訪ねてきて、梨央さんや優君の前に現れてほしい。そう伝えにきてくれた。
梨央さんも、優君も自分のことは自分で守れるようになった。だから、私が1人で彼女らを守らなくても良いんだと。警察官という立場でありながら、私にそう伝えてくれた。
時が私を導いてくれているんだな。
私は雪のない土地に一歩を踏み出す勇気を手にした。
隣を見ると、島野さんがからかうように私に笑いかけている。
二人三脚のように歩を並べて、ゆっくりと一歩を踏み出した。
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