太陽とみかん3
「それじゃあ、八郎、7時に『とまり』な」
そう言って幸太郎と八郎は別れた。
八郎が愛媛に来て半年が経っていた。
半年前まで毎日毎日土をいじっていたが、今は、毎日毎日みかんをいじっている。
半年前の自分からは想像もつかなかったが、今は毎日みかん畑に行ってみかんのお世話をする、そんな穏やかな日々が流れていた。
そんな中で出会ったのが幸太郎という同じみかん農家の青年だった。
八郎と同じ歳ということもあり自然に仲良くなり、今ではよく食事に行くこともあった。今日はいつものように行きつけの飲み屋で落ち合う予定だった。
「おお、八郎!先に飲んでるぞ」
そう言う幸太郎の隣に見知らぬ女性がいた。
「あ、こいつ、優子って言ってな、俺の幼馴染で妹みたいな奴や」
この女性は苗間優子と言い、愛媛市内で結婚していたが、離婚して、今は実家であるこの店を手伝っているのだという。
性別は違えど、同年代の3人が集まれば次第に仲良くなり、いつの間にか3人で行動することも多くなっていった。
「優子はさ、何でこっちに来たん?市内にいた方が仕事あるやろ?」
酔った勢いで幸太郎が聞く。
「うーーん、そうやなあ、幸太郎にはわからんやろうけど、離婚ってものすっごいパワーいるんよ。だから、その思い出のある市内にはいれんかった。まあ、リセットしたかったって感じかな。ハチさんはわかってくれるよね?」
「そやなあ、リセットしたいってのはわかるな。そやけど、僕、離婚してへんで」
「えええ?!ほんま?!!仲間やと思ってたのにショックやわーー!何で?奥さんに未練あるん?それとも別れさせてもらえんとか?!」
『何で?』そう言われて八郎は固まった。
もちろん喜美子のことは愛している。そんな喜美子に見合う男になりたくて京都でがむしゃらになりすぎて自分を見失ってしまった。
愛媛に来てやっと最近、青空が青いこと、夕日が赤いこと、みかんがオレンジに色づく、そんな当然のことを日常として感じれるようになったところで、これからの事を考えるまでに至らなかった。考えようとすると身体が拒否していた。
自分の質問に答えられない八郎を見て、優子はそれ以上踏み込まなかった。
その数日後、信楽窯業研究所の柴田から手紙が届いた。
喜美子が京都で個展を開く、という内容だった。
八郎が信楽を去る前に喜美子のことをお願いしたからか、柴田は喜美子を親身に応援してくれていた。手紙にも『ハチとの約束を少しでも果たせて良かった』と書いてあった。八郎は、ただ、ただ、ありがたかった。
「なに見てるん?なに何?川原喜美子展?ああ、これが八郎の嫁さんか。また、ごっつい作品やなあ…へえー、個展やるんや。すごいなあ」
チラシを眺めていたら、幸太郎が覗き込んで声をかけてきた。
「で、八郎は行くん?行くんやったら、一緒に連れてってくれ。京都も久しぶりに行きたいわ」
しばらく考え込んで、幸太郎は、そう八郎を京都に誘った。
八郎が元々陶芸家であること、妻も陶芸家であり、そこでのやりとりがうまくいかず、精神的に追い込まれて今は愛媛の兄のところで療養していることを、幸太郎は八郎の兄から聞いていた。
だから、背中をおしてやるべきだな。そう思っていた。ただ、1人でついていくのは力不足のような気がして、優子を誘った。
「これはいくべきだと思う。離婚の先輩の私の言うこと聞きなよ」
後日、優子は、悩む八郎に対して短く言った。
優子と幸太郎に背中を押されて、八郎は心を決めた。
心を決めたが、個展会場に向かう道のりは、足がとても重たかった。
今、喜美子の作品を見ることで自分の体調はどうなるのだろう。
やっとここまで回復したのに、またあの日々に逆戻りするのか?そんな心配が、足にいくつもの重りをつけていた。
だが、会場に入り、喜美子の作品を目の前にすると、すぐに引き込まれた。
2年前に穴窯を成功させたときの作品と比べても繊細な色が出ていた。
すごいな、すごいな。ワクワクした。
喜美子はどんどん前に進んでいるんだ。あの穴窯を使いこなしている。それを八郎は素直に受け止められていた。
自分も、立ち止まっていたわけではなかった。前に進めている。
そう思ったからだ。
京都でもがき、苦しみ、失敗したかのように思えたが、今は、太陽の眩しさ、色がわかる。みかんの匂いもわかる。それと一緒で、八郎は喜美子の作品を客観的に見ることが出来ていた。
会場を出る時、八郎は芳名帳に自分の名前を書いた。
「十代田八郎」
そう素直に記していた。
「なんて読むん?そよだ?へぇーーーー、カッコええ苗字やん」
記入する八郎を見つめていた優子は、そう言って笑った。
陶芸をしない、十代田でもええんや。
そう言ってもらっている気がした。
その瞬間、八郎は、離婚することを決心した。
帰りの足取りは、重りが取れたように軽く、太陽まで登れそうだった。
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