小学4年生のとき、いじめに遭った話

小学4年生、9~10歳にかけての話。
 
くるみ割り人形のアラビアの踊りの絵を自由帳に描いていた。ある日学校を休んだ。次に引き出しを開け、自由帳を開いたとき、いじめの主犯の「見たよ」という文字とともに班員のひとりひとりの直筆の署名がしてあった。

テストが返却される時。わざわざ私の答案用紙を覗いては時たまあるミスを執拗に馬鹿にされた。主犯は大して勉強もできないのに。

掃除の時間。私が雑巾で床を拭いたあと、あいつが拭いたあとは汚い。だからもう一度掃除しなきゃ!と言われた。その頃は今と違って毎日風呂に入っていたのに。(今めちゃめちゃ風呂サボるのに風呂に入っていないとどうしても家を出られないのはこのせい。)

私は踊るのが好きだった。好きである自覚はなかったけけれど、ずっと踊っていたかった。教室でもたまに小さくステップを踏むのを我慢できない時があったし、給食当番が終わって白衣を廊下にあるフックに掛けにいったときの誰もいない廊下ほど気持ちよく踊れる舞台はないと思っていた。たまたまそれを見られて、意味不明なあだ名をつけられた。毎日その名前で呼ばれた。私には私の名前があるのに。

図工の教材で木材と釘が配られた時。それらは自分の名前を書いた厚紙の箱に入れて全員分をひとつの段ボールに集めて保管されていた。明らかに自分の木材と釘の数が少なくなっていた。私は残った材料で粗末な容器しか作れなかった。男の子たちは明らかに多い木材を使って、賞に選ばれていた。

もちろん毎日、死ねと言われていた。なぜ今日も生きているのかと言われた。学校では先生やお友達の言うことを聞きましょうと教えられていたので、素直に受け止めていた。

主犯の男の子に逆らえば逆らった男の子もターゲットになる。クラスのほとんどの男子はその男の子を苦手としていたけれど、従って私に嫌がらせをするしかなかった。
 

(今振り返るとこんな)酷いことをされても、それを耐えてまで学校に行かなければならぬ理由があった。部活があった。部活には自分の居場所があった。すきな先輩たちがいて、自分の練習に応えて上達させてくれる楽器があった。ピアノ以外の楽器を奏でること、ピアノとオーケストラでは音楽の視点が全然違うことが新鮮で楽しかった。

しかし部活動では部活動以外の学校生活をまずはしっかり頑張ること、その上で部活動に参加すること、言い聞かされていた。私の「部活動以外の学校生活」には「いじめを受けること」が包含されていた。いじめを受けなければ、部活に行けなかった。顧問は親からの相談で事情を知っていたので、1日だけ、学校をサボって放課後の練習だけ行った日もあった。しかし罪悪感が募ってそれ以降はそんなことはできなかった。

顧問や他の教員に相談しても、言い返せばいいじゃないと言われた。最初はそうしていた。でも毎日暴言や嫌がらせを受けたら言い返す気力なんてなくなって、ただ笑ってそれを受け流すことしかできなくなる。今振り返ればこのときの大人ってわかってないよね。経験のないことを想像すらできない大人って本当に愚かだ。
 

この段階までくると、(今思えば)自分の行為にも影響が出ていた。月曜日から金曜日はありえないほど(1週間を今の1ヶ月くらいに)長く感じていたし、お風呂ではものすごく丁寧にからだを洗わないと気が済まなかった。
ほぼ毎日の部活、週3.4のバレエ、週2のピアノ、週1の習字。全部自分がやりたくてやっていたんだけれど、そのおかげで親とじっくり話をする暇もない。部活と習い事から帰ってきた夕ご飯の時間くらいしか愚痴をこぼせなかった。毎日泣きながら今日受けたら嫌がらせをつらつらと吐露しながら飯をすすり、長時間の風呂に入り、宿題やピアノの練習をして、寝る前に少しだけDSでどうぶつの森やおしゃれモデル⭐︎オーディションをして寝る。そして次の日起きて朝練に行く。そんな日々だった。
休日に出かけたい場所に連れて行ってもらえなかったり欲しい服を買ってもらえなかったりした時、親にひどく憤りを感じて不機嫌になった。日曜日の夜には学校に行きたくないと癇癪を起こし息ができなくなるくらい泣き喚いて、なら行かなければいいと親に呆れ半分に言われた。それでも学校に行かなければならない義務感で、学校に通った。平日でストレスと自分の欲求を溜め込んでる分、休みの日に誰かに自分の要求を思い切り受け止めてもらい、叶えて欲しかったんだと思う。

こんな毎日が続いて、ついに親をも泣かせてしまった。「私たちだってどうすればいいのかわからない。」と。それから親にその話をするのを最小限にするよう我慢した。どんどん、人に弱みを見せることが怖くなっていった。弱みや完璧でないところを見せる、あるいは見られてしまうことによって(いじめの主犯には)自分が傷つけられるし、親や顧問みたいな大切な相手も傷つけてしまうのだ。
人生はこれくらいつらいのが普通なんだ、生まれてしまったら皆これくらい辛いのだと思い疑わずに生きていた。
 

いじめはほぼ1年間ずっとやまなかったので、本当はもっと多岐にわたる嫌がらせを受けていた。たくさんの嫌がらせを受けていたことは覚えているけれど、どんな嫌がらせだったか、全く思い出せない。幼少期の記憶がはっきり残っている私でも、全然思い出せないのだ。これでも絞り出したほう。おそらく脳みそが検閲か何かしているんだと思う。
 

今振り返れば、大人の適切な対応とケアが全く無くてありえない。今の21歳の私でも、もし大人の関係者(教員や親)だったら素人である自分の手先の対応だけで済ませているはずがない。犯罪なんだから保護者は弁護士と警察に相談するべきだし、教員は双方の保護者に起こったことを説明し、徹底的に加害者を被害者に接近させないようにすべきだった。被/加害者双方にカウンセリングやソーシャルワーカーに相談するなど適切な医療を受けさせるべきだった。

法的手段をとるべきいうのは大袈裟に聞こえるかもしれない。しかし法律に素人である教員や保護者の言葉はあてにならない。なによりも法的手段をとることで保護者がプロである第三者を動員してまで我が子を護りたい、それほど保護者にとって子どもは大切でありかけがえのない存在であるこの他ならない、子どもへの意思表示になる。

 
歳を重ねて自分が大人に近づいだからこそ、この時の大人の異常さやどうしたらよいかのわからなさやプロや第三の機関に助けを求めなかったという行為が憎い。ずっと恨んでいる。大人を、親を、尊敬してはいるけれど、強い憎悪を抱いている部分も多い。
 

自己肯定感というものが底をついていて、高校生になってから自我を築く段階でつまずいた(他人がやり遂げられることは私も必ずやり遂げられるだろう、という同一化をしてしまった)ゆえに過労で鬱になったのも、それで高校を卒業できず退学してしまったのも、弱みを見せることを極端に怖がるのも、両親から健全で多大なる愛を注がれて育ったのに愛に飢えているように見えるのも、元を辿ればすべてこの出来事に行きついてしまうのである。てか全部いじめのせいにさせてよ。じゃないとやってらんないんだよ。やるせないよ。

結局私は小学4年生の出来事から進めていないのだ。ずっとひとり、取り残されている。早く前に進みたいのに。

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