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凸凹は誰にでもある。バイアスを外して納得して生きよう

発達の凸凹は誰にでもあるものですが、同調圧力の強い日本では、「違いを認める」というステップ自体にエネルギーが要ります。

不登校も増えているとはいえ、まだまだ「違う」という目で見られがちです。

人と違う状態が起きた時、それをどう認知して、認識するのか。

そこにズレがあるから、学校や周囲の人たちとのやりとりでストレスが生じるのです。

認識の前に必要な「認知」 現状を正しく知ること

この土台となる情報がずれていたら、子どもをサポートするチームとして機能するのが難しいのも当然です。

では、どうするのか。

ここが大切ですね。

それは、まず自分が現状を正しく認知することでしょう。

人は誰しも、「正常性バイアス」を言うものを持っているそうです。

これは、事故や災害が起きた時、「大したことはない」「なんとかなる」と自らに都合よく解釈して、ことの重要性を認知出来ないことを表現する言葉だそうです。

大きな事故が起きた時はもちろん、日常的に不快なことが起きた時にも、この正常性バイアスは働いています。

それは、日常生活を維持存続していくために必要な概念なのでしょう。

日々のルーティンを繰り返すことは人の営みにとって重要です。

自分が所属する社会(学校や会社)の規範に合わせて秩序を保つことも大切です。

けれども、「何のためにそれをしているのか」「それを自分は本当に大切だと思えているのか」ということを、時々考える時間が有っても良いと思うのです。

世の中にとって何が善なのかは常に移り変わっていますし、自分の感覚も変化しているから。

立ち止まって感じる時間は、人類や文化の進化・発展を感じる時間とも言えそうですね。

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「正常性バイアス」のある中でも、正しく認知したいことのひとつが子どもの生きづらさ・学びにくさです。

今、人の精神に関する勉強をしているのですが、「精神疾患」と言われる状態に至る要因として、消化しきれない感情の歪みがあることを感じています。

強い刺激があって、感情が溢れているのに、それに見合った受け皿がない。

確実に有能な面を持ち、それは事実としてあるのに、別の部分が脆弱であるがゆえに形になりにくい。

このような歪みが継続されることで無力感を感じて、無気力状態が生じる。

時には心の不均衡が体の症状を引き起こしたり、どの状態が自分にとってバランスを保ちやすいのかすらわからなくなる。

「精神疾患」ということは「異常者」「不適応者」のように思われがちですが、紐解いてみると、こんな現象が起きています。

誰にでも起こることだな・・・と、しみじみ思います。

子どもは、ボキャブラリーが大人より少ないですし、気持ちをまとめて表現することが苦手な子、時間がかかる子もいます。

それは、受け取っている情報が膨大であったり、たくさん考えていることの証でもあるのですが、小出しにする機会が少なかったり、アウトプットの際に型にはめることを意識するために、出しにくくなったりもしています。

「発達障害」と言われる子ども達には、おきがちな現象です。

環境がコミュニケーションの難しさをつくっているかもしれないのに、一般的にOKとされる伝達量やスピードの定量に達しないと、「障害」「疾患」と言われてしまうのでしょうか。

子どもを守るため、自分の日常の維持存続のために、「社会」に適応することはもちろん必要ですが、時々その「バイアス」を取り除いて、生の傷や痛みを直視してみること。

変化の大きい時こそ、必死に流れに乗る前にしっかりと立ち止まること。

それが、容認できる範囲を広げ、より正しい認知を近づける。

そして、自分を、家族を、より長くより平穏に保つために必要な術のように思います。

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自分の周りにいる不登校を経験したお母さん達が、どこかしなやかで凛としているのも、立ち止まる時間を持てたからかも知れません。

社会に置いて行かれる焦燥感を感じつつも、ストップを余儀なくされた。

でも、そこからその「社会」を自分なりに認知し、捉え直し、本当に信頼できる人やサービスを選択することに時間と労力をかけてきた。

「どうして自分だけ?」と思いながらも、取ってきた行動(認知と選択)が納得感を持てる日々につながっているのでしょう。


私は、不登校を容認しているわけではありません。学校は本来、学べることもたくさんある場所ですから、行けるなら行ったらいいと思う。けれども、心・身体・人間関係・学び方などの面において、通う場所が安全ではない場合もあります。そうなった時に「通わない」という選択しか選べないことが非常に残念です。
通う・通わないの間に、もっともっと細かい選択肢が有っても良いでしょう。そこに必要なことが、バイアスの存在を知った上での認知です。
「不登校を容認」することで、学校に行かない、行きにくい子ども達の声をおざなりにするのではなく、誰もが学ぶ権利、豊かに生きる権利を持っていることを忘れないこと。もし学校に通うことが難しいならば、家庭での学びに対する援助も、家庭任せにせずにもっと行われていいと思います。


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