自由律短歌集『十一人 : 第一歌集』を読む(一)

はじめに

小関茂という歌人が話題になりはじめている。

これからも名前を聞くことがあるだろう。彼の歌をまとまった形で読める本を探していたら、『十一人 : 第一歌集』(白日社、1930)という歌集を見つけた。「覚え書」を見ると、機関誌「十一人」の合同歌集であるらしい。分かりにくいが、「十一人」の同人は十三名で、歌集には十二名の作品が収録されている。編者は中野嘉一。自由律短歌を実作・評論の両面で支えた歌人である。

特徴的なのは、多くの歌人が短歌のあとに小文を載せている点である。近況報告や歌の説明、作歌の態度など、各々が自由に書いているらしい。

(一)(二)でとりあげる歌人を列記する(敬称略)。

(一)
中野嘉一「顕花植物と都会」
松村泰太「胎盤」
中村智恵子「幸福を語る」
朝倉敏夫「明るい街へ行かう」
間世田不二子「独楽をまはす」
北島利家「朝の野天」

(二)
吉川夏子「菊の感覚」
松田稔「富士が見える」
岡戸伴助「夜の遠街が低く見える」
古川たち子「新しい夢」
小関茂「太陽を載せた汽船」
田中島理三郎「色彩のない夢」

歌の前に前田夕暮の「序文」を引用しておきたい。歌の理解に役立つだろう。なお、前田夕暮は今も名が知られているほとんど唯一の自由律歌人である。

 これは、何といふ鮮麗な青い蛾だらう。
 これは、何といふ快い音をたてる金属製叡智だらう。
 これは、何といふ素晴らし植物性香気だらう、
 これは、また何といふ敏感な都会の触手だらう。
 これら一切の台風を孕んだ現実感が、そくそく、、、、として吾等に近く、次代に呼懸け、明日を示唆するものは何か。
 其処に、新しい感情と感覚の翅搏があり、思想の胎動と、生活の黎明とがある。
 近代主義短歌に光あれ!
序文は詩のように行分けされており、ここには最終連を引用した。


中野嘉一「顕花植物と都会」

コバルト深く、画線をひいた円形の、ビル街へ無数の星がふつてゆく!
「都会の断面」

幻想的な歌だ。「円形の」は「ビル街」にも「無数の星」にもかかっているように感じられ、藍色の夜の四角いビル群という実景が、無数の星の円光によって覆いつくされ、真っ白になって消えるイメージが浮かんでくる。


雨が白く、窓ガラスを斜めに切つてゐた、くらい部屋の隅つこで、僕は、目が覚めていた
「コンクリート・ミキサーと太陽面」

モノクロ映画のような光景だと思う。白い雨は窓ガラスを切りつけているように見える。「僕」はその痛みを分かちあうように、見つめるように目を開けている。


松村泰太「胎盤」

もう冬だな 鋪道の落葉をかさこそ踏んで帰る
「ある雰囲気」

この歌が自由律俳句ではなく自由律短歌に見える理由があるとすれば、「もう冬だな 鋪道の」の一字空けと、意味の切れ目が「もう冬だな/鋪道の落ち葉を/かさこそ踏んで/帰る」の四箇所もあるからだろう。つまり余裕があるのだ。言葉を凝縮しなければならない俳句との差が感じられないだろうか。


のれんの下を絶えず素晴しい足が過ぎて行く。腰から上は考へまい
のれんの下からのぞく足の印象が、拡大されながら頭の中が皆足になる
「初秋の感傷」

「胎盤」の主体は男で、女性に性的な眼差しを向けることが多い。一首目だけなら「足」に執着する倒錯した男で終わってしまうが、二首目の「頭の中が皆足になる」まで読むと、男の姿がにわかに滑稽味を帯びてくる。この逆転は面白い。


果実店の朝。鏡の反射の中で娘の笑顔が不気味にくづれた
鏡とメロンの中で娘の体が、急にザクロの様に笑ひ出す

一首目があると分かりやすいが、必ずしも必要ではないだろう。鏡に映った娘はまるで人間ではないように歪んでいる。「ザクロの様に」という直喩には活力がある。対して、「メロンの中で」という措辞はあまり効果的ではないように思うが、どうだろうか。


飛行機は爆音たかく過ぎにけり囚人はみな空を仰げり

「胎盤」の末尾にはいくつか定型の歌がある。この歌の硬質なイメージは「コバルト深く、画線をひいた円形の、ビル街へ無数の星がふつてゆく!」(中野嘉一)と共通しているが、こちらの方が力強い。音楽性をしりぞけた自由律の強みだろうか。


中村智恵子「幸福を語る」

幸福を語りすぎてしまつたと思ふ母のない友は卓子にうつむいてゐる
母のない友に私の幸福を語りすぎたと思ふ火鉢の火を掻きたてる

「幸福を語る」冒頭の二首を引用した。まずこれまでの歌との違いに驚かされる。
主体の感情「(…)と思ふ」と実景「うつむいてゐる」/「火鉢の火を掻きたてる」の組み合わせは非常に短歌的である。特に二首目はうまくはまっているように感じられる。いや、一首目があるからこそ、おだやかな語りが受けとめやすくなっているのか。


何と素晴らしい朝だらう二年後の私の生活を想像する(婚約の朝)
主婦としての我を想ひて何かはづかし朝日の中にたたずみてゐる
「足袋」

「(婚約の朝)」は詞書と考えればいいか。「幸福を語る」には定型の歌が混じっているが、この二首は自由律と定型が全く破綻せずに結びついている。
一首目の焦点はいま、二首目の焦点はこれからにある。一瞬の感動を自由律で言い放ったあと、未来に想像される結婚生活を定型で伸びやかにうたいあげる。自由律と定型を使いこなしている。


朝倉敏夫「明るい街へ行かう」

市街からとり残された寮生活のグルーミーが感傷を強ひる――明るい街へ行かう
雪に頬を打たせながら歩いてる――感傷が、また彼女の記憶を呼ばうとする
すつかり他人となりきつた彼女に何を望まうといふのだ、雪空の下をひとり歩いてる
「彼女」

「明るい街へ行かう」はこれまでのなかで最も構成的な連作である。主体は「グルーミー」(gloomy, 陰鬱)から逃れようと出歩くが、繰り返し「彼女」の姿を思い出してしまう。

このように抜き出してみると同じ言葉の繰り返しが目立つ。彼女のことを考えずにはいられない心持を、際立った一首ではなく連作のもやの中に表現したと言えるだろうか。


間世田不二子「独楽をまはす」

掌に石鹸が泡だつ、見つめてゐて、ついさみしくなる
「春の前で」
独楽廻し独楽廻しながら何かかう寂しい心です
「春の前で」

石鹸を泡立て、独楽をまわす、そのような日常がふと悲しくなるときがある。いつ悲しくなるのか。日常が静止したときだ。
日常は流れていき、忘れ去られてしまう。しかし、あるとき、毎日の作業が気にかかってくる。気にかかってやめるのではなく、その作業を持続させてまじまじと見つめてしまう。日常は引き延ばされることで穴が開き、堰かれていた当たり前に心が流れ落ちていく。
二首目の歌は五・八・五・九のリズムが心地よい。自由律短歌には一回性のリズムが要求されるとはこういうことを言うのだろうか。


北島利家「朝の野天」

「朝の野天」の歌はただごと歌に近い。

愉快さうに話してゐるがお互に心のさぐり合ひをし続ける
金のために友情なんかどうでもいいと云ふあいつの顔が俺をおびやかす

一首目は六・七・五・十・五(または七・八の句またがり)、二首目は六・七・九・七・八の歌だと考えると、ほとんど破調である。定型の予感と内容によって親しみやすい歌になっている。

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