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レーシングヘルメットの女(風を斬る空冷ポルシェSpeedster)

”あなたのその機敏な運転すごく好きだわ。私、トロトロ走る男が嫌いなの。”

俺は今、空冷ポルシェ964型スピードスターで風を斬っている。そのハンドルを握っている腕にはタグホイヤーのモナコを巻いて。そして右隣のシートには、女がいる。

スピードスターとはオープンで乗ることを前提としたポルシェ911の中でもかなりのスペシャルモデルだ。
デザイン意匠としてかなり低いフロントガラスのおかげで、何割増しものスピード感とエアーを肌で感じられるのが最高の特権だ。引き換えに会話が難しいほどに風切り音を伴うが。
備えの幌は、急な雨しのぎ程度に過ぎない。

ガレージではチリ除け代わりのその幌を、開けた。
すこし手間だ。
先ずは乗りこみ、バックミラー横のフックを開放。再び降りて、リア両側のライダースジャケットみたいに固いボタンフック達を外して、、、フードをずらし上げ、幌をリアスペースに収めるといった具合だ。特に、ビニール製のリアウィンドウ部分は、たたみジワがよらないように、やさしく丁寧に。正直面倒なのだが、儀礼のようなこの一連の手順に、泡立てブラシを使って髭をそるような、ちょっとした気分の高湯も覚える。
最後にリアフードを閉じてハンドルレバーでロックしたら、スピードスターへ変身完了だ。

うーむ、やはり、オープンにしたお前の、走らずともスピード感をあふれ出すハンサムな出で立ちには、惚れ惚れする。
グランプリレーサーがオフに南ヨーロッパの峠を疾走していそうだ。

今日はどの時計を着るか、迷うことなくチョイスした右腕のスティーブ・マックウィーンモデルのモナコで、彼女との待合せまでの時間を再確認した。

レーシング時計のアイコニック的な存在のモナコ(ホイヤー)は、世界初の四角いケースの防水時計でも、スクエアケースの機械式クロノグラフとしても世界初でもあった。そして、
レース映画の傑作、”栄光のル・マン(1971年)”の中で、レーシングポルシェを実際に駆ってドライバー役を演じる俳優スティーブ・マックイーンが着用して、モナコは一躍有名になった。
マックイーンモデルの中でも、リューズが左側にあるのが、映画仕様とも称されレア品だ。ドイツにまで探し求め手に入れたこのモナコは、マックイーンに倣い、俺が唯一、右腕にまとう時計だ。

ポルシェスピードスターと実に似合う。

そして彼女との出会いは共通の知人と行ったコンサート会場だった。一目惚れとまではいかないが、その可愛らしさと強さが同居する不思議さに惹かれた。その時に、彼女は車好きだとも聞いた。彼女も俺のことを何となく意識しているサマを感じ取ったので、すかさず連絡先を交換し、オープンカーでのドライブはどうだいと誘ったのだ。

彼女を白金の自宅前に迎えに行くまでが、ちょうど、空冷エンジンのウォームアップとなり、油温計も油圧計も真ん中よりほんの少し下の万全な位置を指していた。
良し、吹き上げろ、先制パンチで女のハートにぶちかませ!と、まるでスピードスターが俺にけしかけるようなドクドクとした排気音を轟かせていた。
言われなくとも分かっているつもりさ、女の落とし方を。ドアから出てくる彼女を待つ間、俺は答えた。

カッコよくジーンズを履きこなした彼女を拾った直後、左右にタイトコーナーが連なる首都高目黒線をいきなり攻めた。休日の朝、まばらに走っている車を抜きかわして行く。かなり深めのクラッチを踏み込み、ヒールアンドトゥでのシフトチェンジを交えながら。

瞬く間に、レインボーブリッジ手前に到達していた。走りのポテンシャルを見せ付けるかのように、クールにダブルクラッチでこの先のきつ目のコーナーに向けてシフトダウンした。

五連メーターの真ん中を陣取る、タコメーターの針をなるべく頂点位置に保ってシフトを合わせるのが、空冷フラットシックスに対する流儀だ。

簡単ではない。ポルシェ964のアクセルはオルガンペダルの様な構造と位置が若干手前すぎることもあり、実はヒールアンドトゥが非常に難しい。踏み込みがほんの少しでも足らないと、お前には何年も早いよと言わんばかりに、容赦無く一瞬でエンジン回転が落ち込み、トルクが抜けてしまう。
そんな、やり甲斐あるシフトワークがハマってくれると、立ち上がりで、ご褒美にとばかりに、腰の低い位置から押し出してくる淀み無いトルク感がすこぶる爽快だ。

レインボーブリッジが視界に入ったその時、気の強さげな彼女がその赤いリップを俺に向けて言った。
”あなたのその機敏な運転すごく好きだわ。私、トロトロ走る男が嫌いなの。
それにヒールトウ出来るなんて素敵じゃない。”

東京湾の潮風に乗せられたラブコールのようなそのセリフに気を良くし、いつもよりもアクセルを強く踏み込みレインボーブリッジを駆け抜けた。
濃いめのサングラスをかけているが、今日の日差しは一段と眩しく感じる。

当然、スピードを出すほどにバイクの二人乗りみたいに風切り音でまともな会話は出来ない。だが、彼女もこの疾走感を好むだろうと、俺はあえて構わず、まるで離陸直前のセスナ機の如く、葉山に鼻先を向けて湾岸線をグングンと突き進んだ。空冷エンジンの乾いたサウンドをカーステレオ代わりに。

彼女が行きたいと言っていた、洋館風のカフェに着くと彼女を先に下ろした。急な坂ながらバックで入れる駐車スペースに苦笑いしながら、彼女のほうに顔を向けると、店の外でタバコを吸っていた。気を遣って、可愛いところあるな。

人気のスイーツを摘みながら、初デートだと言うのに、ようやくまともな会話をした。この情緒ある店内もお互いに気に入り、話が弾む。実は彼女はカーレースにレギュラー参戦しているのだと。
そう言えば、道中、トラックがインターチェンジ付近で迷ったのか、不用意な動きで車線をまたぎ行く手を阻まれた。これだけスピードが乗っているから、女を乗せた分の制動距離を加味するとハードブレーキでは厳しいなと判断して、そのままの勢いで路肩車線に入り込み、砂地の路面で流れる車体をアクセルをあえて踏み込んでねじ伏せる場面があった。その時、怖い思いをさせてしまったなと、直ぐに横を見たら彼女は全く涼しげな顔だったなと。
『さっきはヒヤリとさせてゴメンね』と言うか迷ったが、野暮かと思い留めて、たわいも無い会話を続けた。

モナコの赤い針が決勝レースのスタート前のように時を示した。渋滞する前に帰ろうとかこつけ、直ぐに復路へ着いた。が、向かった先はいつもの場所だ。カフェで、既に彼女のハートをつかんでいると根拠ない自信をもっていた俺は、口づけを促した。特に言葉も交わさず、タバコの味しかしない返してきた口づけが意思表示だと受け止めた。

しばらくたったある日、俺に伝えたいことがあると。
”海外遠征があるの。あなたのイニシャルをヘルメットに入れるわ。”
口づけが少し苦かった。
それ以来、彼女との連絡もタバコの煙のように消えて行った。

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