見出し画像

有名指揮者の娘 (アストンマーティンDB9のしらべ)

”このすごいスポーツカー、なんだかチェロのような感じね” と、女はダッシュボードをゆっくりと指でなぞりながら言った。

俺は今、アストンマーティンDB9を走らせている。その深いセンターコンソールを隔てた隣にキレイめな女を乗せて。腕にはビンテージロレックスのサブマリーナ1680を相棒に。

DB9のエレガントなボディプロポーションと内装の優美さは、言わずもがなである。だが、そんな目につく部分だけではない、ドライバー本人にしか伝わらない世界観がある。ハンドルを斬り戻し回すときの、あの、まるで船の舵を切るようなスルスルとしたシルキーな感触は、ジェントルマンカーだなと思わせる。

ボンドカーの異名もあるアストンがゆえに、男ごごろにジェームス・ボンドをつい意識せざるを得ない。007の映画で初の腕時計登場が、1962年のドクター・ノオでガイガーカウンター調整器シーンでのロレックスのダイバーズウオッチ、サブマリーナだ。
そんなこともあってか、コレクション BOXから迷わず俺はこいつをピックアップしていた。SUBMARINERと文字盤に赤く記載の機種名からきた通称赤サブの中でも、至高のコレクターアイテムのマーク2ダイヤル・文字盤版を。

午後遅めの待ち合わせに、いかにも成城の主婦のイメージ通りの上品な服装で現れた彼女を見て、思わず、あ、そうかと一人呟いた。誰かに似ているとは思っていたが、今はパリに住まうというだ元キーTV局のアナウンサーだ。共通の友人の別荘で出会った時は、みんなと水着姿で目の前の海ではしゃいでいたが、ひとりなんとなく上品な印象が突出していた。キレイだ。グループラインから個人的に連絡をとり、近場へのドライブを打診して今日にいたる。これまでのやり取りの中で、有名指揮者の娘であるとも知った。

ドアを開け、DB9の低めの着座位置に少しばかしとまどう様子の彼女を、エスコートした。乗り降りし易い様に少し斜め上に開くドア機構が、それをジェントルにアシストする。
上質なウッド材と手縫いステッチのレザーであしらわれた内装が、彼女を歓迎した。

”素敵な車ね”
気に入ってくれたようだ。期待通りの褒め言葉を受けて、そうだろと内心、ほくそ笑む。

エンジン始動には、キーをセンターコンソール上部に差し込み、それを押し込むのだが、そうだ、楽しんでもらおうと、彼女と一緒にグッとした。
まるで秘宝の扉を開ける儀式かの様に。

ダイバーズウオッチの回転ベゼルポインター位置を日の入りの頃にそっと合わせておいた。ジェームスボンドが小道具を仕込むかのように。

DB9はロングノーズだ。ボンネットの長さが大きなエンジンを積むステータス感を誇った伝統的な形式美なのだろうか。それでも、両端が大きく弧を描くボディラインのお陰で、楽とは言わないまでも、意外にも狭いスペースをこなせる。
少しカッコをつけるかのように、斬り返し無しに、前に停車した車をいなして出発した。

発進はもっさりとしている。いいや、あえての所作なのかもしれないな。
ジェントルマンカーなどと勝手な標ぼうを唱えられるが、こいつは立派なスポーツカーだ。6リッターV12気筒NAエンジンは約600N/mの最大トルクを5500回転で発生する。踏めばいつでも爆発的な加速トルクがベールを脱ぐ。

雅な風貌だが、こいつは12気筒というエンジンの王様みたいなのを積んでいる。とてもパワフルで、体格のいい太いモモの競輪選手がペダルを踏むようなイメージだ。 たまにはと、車の事を少し解説してみせた。

東名高速の下り線、横浜青葉から幸い空いていたので、スピードに乗せて疾走させる。太いエキゾーストサウンドが、ダッシュボードの向こう側からV12の男らしい鼓動と共に、やはりジェントルに心地よく車内に入り込む。

”このすごいスポーツカー、なんだかチェロのような感じね” と、女はダッシュボードをゆっくりと指でなぞらえながら言った。

なるほど。そのシャレた表現に、妙に納得した。チェロは音域が人間の声に一番近い楽器と言われ、豊かな深い音色を伴うものな。アストンのラインアップになぞらえたら、ツーシーターのスポーツモデル、ヴァンテ―ジがさながら高音域のヴァイオリンで、4人乗りのこのDB9は、低音から高音まであるチェロと言ったところだな。音も含めて全体のインプレッションがチェロのしらべなのかもしれない。彼女には興味もないだろう車談義を一人で、つい頭の中で続けてしまった。アストンの世界観を共感できたようで嬉しく、何より彼女の感性に惚れ込んでしまった。

大井松田に差し掛かると、快晴の空をキャンバスにしたマウント富士が目の前に絶景として現れた。そろそろ日が傾く頃合いだった。インターを降りて、小高い丘に車を回した。
DB9のしらべに酔いしれたかのように、肩を寄せ、彼女の身の上話をしばらく聞き続けた。ちらりと左腕のロレックスに目を向けると回転ベゼルのトライアングルポインターの向きと時計の針が重なりあっていた。男と女が身体を合わせるかのように。センターコンソールの内側にあるスライドボタンで、彼女のシートを少し、いたずらに寝かせた。

”でも、ここでは何だか嫌だわ”

俺は、そのストレートで大胆な誘い文句に、野暮に、いいのかい?なんて聞き返すこともなく、静かに手を握り返してから、車を動かした。
アストンマーティンという動くリビングからベッドルームへ二人は舞台を移した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?