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ゴジラ-1.0で山崎貴が言いたかったこと(実在のモデルがいる件)

さて初日に見てきましたゴジラ-1.0。
読後の感想はどうだったかというと、実は結構微妙でした。

VFXは素晴らしく、事前にギャレス・エドワーズ監督が「嫉妬した」と言っていた意味もよく分かる出来。

一方人間ドラマ、特に主演二人の絡みが大味で、ラブロマンスとして捉えるとすったもんだが非常に雑、まるでストーリー展開上の予定調和のテンプレ感がある。

ただ同時に奇妙な感覚もあり、シナリオはけっこう緻密に出来ていることがわかるんですよ。

例えばこういう部分

(※以下ネタバレあり)

・ゴジラの口に最後アタックする主人公、敷島。「いやそんなうまいこと当たるかよ。特攻って成功確率低いんだぞ(実際は11%)」とツッコまれそうだが、その前に船上の固定機銃で機雷に命中させるという、実は敷島ってすごい腕がいいというシーケンスを伏線に挟んでいる
・典子が行方不明になる前に、敷島が「もう一回生きてみよっかなあ」という吐露のシーンがそっと入れてある
・脇役メンバーもきちんと登場時に示されるキャラ性と乗り越えなければならない目的、オチがしっかり用意されている。

シナリオは決して粗雑濫造の類ではなく、細部まで緻密に計算が効いているものである。

なのに、なぜ主要二人の人間ドラマがあんなに大味なのか。この疑問を持った事が、この映画のテーマを理解する上で一つの鍵でした。

ここからがこの記事の本旨となります。

「主演二人の恋愛ドラマよりも優先したい何らかの強いメッセージが先に決定されており、それに沿うようにキャラを後付けで配置、装置的に使ったために、生の人間の実感や匂いよりもメッセージの道具感が強くなった」のではないだろうか。

ではそのメッセージとは何なのか、これから考察を始めましょう。



まず「敷島」とは一体何者だったのか

さて、この部分は割と肝心で答えから言いましょう。彼は、第一回神風特攻隊 敷島隊隊長 「関 行男(せきゆきお」大尉という人物がモデルになっていることはほぼ間違いないのではないかと私は見ています。

佇まいが何となく似てませんか?

なぜそう言えるか。
1つ目は名字ですね、第一回特攻隊敷島隊と、「敷島」。
2つ目は特攻を批判した事と、特攻から逃げたこと。
戦後、彼は小野田報道員にこう漏らしていたことでも知られています。

日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。
ぼくなら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。

文藝春秋より

こういう「特攻」に対する恨み節を遺した人物としても実は有名なのです。

3つ目はともに特筆するほどの腕を持っていたこと。
この関行男なる人物は、護衛空母セント・ローを爆沈させた「軍神」という尊称で呼ばれた凄上の軍人でした。
そして4つ目は上の言葉の中にある「50番」という単語、実はゴジラマイナスワンの中でも、橘宗作が震電の説明をしている時に「50番の爆弾を乗せた」とセリフで言っており、一致しています。

そして最後の理由としては、監督の山崎貴の過去作2013年の「永遠の0」でも、関行男の名が映画内に登場します。過去にも関について調べていたわけです。

つまり、この映画は特攻で死んだ関行男(を彷彿とする人物)がもし特攻で死ぬことなく生き延びていたら?というIF要素が含まれているんですね。
ゴジラ映画のリブートであると同時に、実は歴史そのもののリブート、改変系映画も兼ねており、
「関行男が生きていてかの証言にあるように、特攻以外のことにその能力を使ったら、日本を救えたのではないか」・・・

ふーん、そうなんだ。で終わらないように。
実はこれが分かってくると実に様々な事が一気に筋が通ってきます。


かつて一世風靡した「ゴジラ英霊説」

かつてゴジラとは戦争で死んだ英霊たちの恨みの結晶である、という説がゴジラ界隈にはありました。
だから絶対に皇居と靖国神社だけは襲わず、必ず毎回南の海へと帰っていく、なぜなら南方戦線で死んだ自分たちの遺骨がまだ海に眠っているからです。

「ゴジラ英霊」説の初出は1983年の批評家川本三郎さん 今ひとたびの戦後日本映画 (岩波現代文庫)
その後も加藤典洋さんなども著作で述べており、この説は逆に2001年の通称「GMKゴジラ」のメインストーリーにまで公式採用されるという形で逆輸入まで果たしました。

英霊ゴジラは、自分たちが身を挺した悲惨な戦争をすでに戦後日本は遠くに忘れてしまい、その事に強い憤りを抱え、経済成長した日本に現れ怒りを爆発させる。

初代ゴジラから一貫して、戦争の記憶と戦後復興への「違和感」がゴジラの怒りからは感じられる、ということは他にも切通理作先生や、町山智浩氏も指摘し続けてきた通りです。

そのことを踏まえると、実はゴジラ-1.0はこの「ゴジラ英霊」説への次なるアンサーとして成立している。

なぜなら、蘇った関行男とは、「特攻したことで英霊として靖国に祀られることを拒否した男」に相違なく、英霊ゴジラとは実は真逆の立場にいるんじゃないかと捉えることができるからです。

本作のゴジラがいつにも増して凶暴・凶悪で破壊の限りを尽くすのも、死んだ兵士たちの呪詛・永遠に終わらない怒りであり、なぜいつもゴジラがいる場所に敷島がいるのかも、それは「自分たちは死んだのに卑劣なお前だけ生き残ったことが許せない」と考えることができる。敷島は典子を失った時「赦しはしないということか」というセリフを発しており、ただ「偶然あらわれた怪獣」として見ているというより、自分が逃げてしまった戦争の怨念のようなものとして現に捉えていなければ出てこないセリフなわけです。

英霊の結晶体ゴジラVS英霊となることを拒んだ天才パイロット

こう考えていくと上記の対立構図が綺麗に成立し、今回のゴジラの最大ライバルがなぜメカゴジラとかキングゴジラのような濃いキャラじゃなくて敷島だったのか?という理由がようやく解けるのではないか。
これが物語の中心位置テーマにある。

さて、ここまでわかったところで、もう一度タイトルを見てみよう。
予告編では、「戦後全てを失った日本が、0からマイナスへー」どうたらと言っていたが、おそらくそれはブラフであり、本当はこのような含意ではないのか。

マイナス1とは、特攻で死んだ4000人強の人間から、靖国神社から、関行男だけ「マイナス1」して現世に残した

典子が何度もくどいくらい「とにかく死んではいけない」という圧力をかけてくるのも、関行男に冥府に戻ってはいけない、ここに止まるんだというメッセージになっている。

最後に敷島を玉砕から救った人物名をよく読んでみよう

ここからはちょっと強引な解釈だがおまけ。

敷島が玉砕せずに緊急脱出装置を使う、というエピソードはもう一人のキーパーソン橘 宗作によってなされる。

この人物がある種のキーパーソンになっていることは、その特異な出番から行っても間違いない。彼は主人公PTに入るわけでもなく、やや距離感がある存在であるにもかかわらず、全脇役のうち実は最も最初に、ヒロインの典子をさしおいて登場している。

ある種の主人公にとって乗り越えなければならない壁(敵といえるかどうかはあれだが)を担当させていることはすぐにわかるかと思うが、私がいう「特別な役割」はそれだけではない。彼はほかの脇役とは決定的に別の次元の存在なのだ。

彼の名前をもう一度言ってみよう。
「橘 宗作(そうさく)」である。
これはある言葉と同音意義語になっているのかもしれない。

そうつまり「創作」である。

関行男は創作の手を貸りることで、玉砕をやめ靖国(英霊)から現世へと舞い降る

というメタ宣言の役割を与えられているのが橘という人物の役割ではなかったのかということだ。

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