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【第10回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈堀内護の音楽ルーツを探る(1969-1970)〉

◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta

1970年代を洋楽的で鮮やかなハーモニーとサウンドで彩ったポップ・グループ、<GARO / ガロ>(堀内護 / マーク、日高富明 / トミー、大野真澄 / ボーカル)。その結成以前のメンバーの歩み、音楽的背景を、日本のポップス発展史と重ね合わせ、関係者取材をベースに詳細に追うヒストリー原稿です。全14回(予定)の連載記事。


1969 → 1970 堀内護が好んだ音楽とは?

 さて、前回まででガロ結成前夜へと大分近づいたのだが、話を先に進める前に、今回から3回に渡り、”インターミッション”ということで、ここまでの話の中で納まりきらなかった、堀内・日高・大野それぞれに関する事柄いくつかを、触れさせてほしい。

 流れを止めることは心苦しいのだが、それらの事柄はやはりその後の彼らの音楽を考える上では重要で、そこをスルーして先に進むわけには行かない気がしているからである。

 まず最初に、ぜひ触れておきたいのは、1969年頃から1970年頃にかけて、つまり“ガロ以前、ヘアー前後”の時期に、堀内や大野が、いったい、どんな音楽を好んでいたのか?、ということだ。

 なぜなら、ここまで文章を進めてきて、〈ミルク〉で精力的に動いていた日高とは違い、〈エンジェルス〉脱退後はほとんどライヴを行ってこなかった堀内や、同じく散発的に弾き語りを行うくらいだった大野については、実際のレパートリーなどの具体例があまり示せず、日高が好んだ音楽についての記述の多さに比べて、かなりアンバランスになってしまっていると感じるからである。

 特に、堀内についてはガロ活動当時のインタビュー発言、寄稿文などもほかのふたりに比べかなり控えめだったため(あってもほんの少し、という感じなのである)、引用できるような資料もとても少ない。そうした資料の少なさという点も、そのアンバランスさに拍車をかけていると思う。

 以下で触れるのはレパートリーではなく、あくまで当時、堀内や大野が好んで耳にした音楽に関するラフでランダムなメモ書きということになるが、筆者自身のインタビュー時などの直接の会話から得た話、あるいは解散後の各種メディアでの発言などから、あくまで個人的な目線ではあるけれども、いくつか気になる情報を記しておければと思う。


ウォーカー・ブラザーズとスコット・ウォーカー

 ひとつめに挙げたいのは、堀内がウォーカー・ブラザーズや、そのメンバーであったスコット・ウォーカーの楽曲も割合好んでいた、という話題だ。

 堀内の弁によれば、彼が“ミルクの原型”からの離脱後、自身の歌の可能性を探っていた頃によく練習曲として用いていたというのが、このウォーカー・ブラザーズ(ウォーカーズの略称でも親しまれた)や、スコット・ウォーカーの曲だったらしい。

 その後、1969年9月に『ヘアー』のオーディションを受けた際には、その練習曲として用いていたというウォーカーズの「シェルブールの雨傘」(67年の第3作『イメージズ』収録)を堀内はそこで披露したといい、これで一次審査に合格したとも語っている(堀内のブログ2012年04月29日付の記述にもこのエピソードは出てくる)。

 ウォーカーズについてはもともと好きだったらしく、68年1月の来日公演にも堀内は足を運んでいたともいう。これは堀内がまだ〈エンジェルス〉に在籍していた頃のことだ。

 もっとも、どの程度の熱心さでソロ以降の活動までを追っていたのかは掴めていないのだが、個人的にはとても興味を惹かれる話題だ。

 ウォーカーズ、スコット・ウォーカーはそのルックスから当時の日本では圧倒的なアイドル人気を誇っていたが、特にスコットがそれに甘んじない、アーティストとしての実力を備えたミュージシャンであったことは、今日、論をまたない。

 ことに夢幻な響きのオーケストレーションに包まれたスコットのソロ時代のオリジナル楽曲は時に“バロック・ポップ”、“オーケストラル・ポップ”とも呼ばれ、欧米では今日に至るまで後続世代のミュージシャンからの支持も高いほどのものだが、それらの作風からは、後年の堀内の世界とも通じる部分も感じられるからである。

 たとえばそれは、スコットの「王宮の人々(Plastic Palace People)」や「モンターギュの青い影(Montague Terrace(In Blue))」のような、ファンタジックな世界観だ。

 果たして、そうしたスコットの作品は、当時の堀内の耳にも届いていたのだろうか?

ドノヴァンと加橋かつみのパリ録音

 バロック/オーケストラル・ポップの文脈ということでは、第9回で触れたドノヴァンの、堀内がこよなく愛したという「ラレーニア」という楽曲も、その範疇に入れてもいいものだったかもしれない。

 (よく写真などで見られる)アコースティック・ギターを抱えてのドノヴァンの姿から想起される"弾き語り"のイメージの強さからか、日本ではあまり語られない感もあるが、スタジオ録音版の「ラレーニア」といえば、この時期の他のドノヴァンの楽曲の多くと同様、そのサウンド作りに重要な関わりのあったジョン・キャメロンによるオーケストラ・アレンジや、ハロルド・マクネアによるフルートの調べも胸をうつ楽曲であった。

 さらにいうなら、当時の日本人でそんなスコット・ウォーカーやドノヴァンの作品と近似する薫りを持つ音楽を発表していたのが、ほかでもない、日本版『ヘアー』上演時の中核的存在であった、元〈ザ・タイガース〉の加橋かつみだった。
 
 69年12月に発売された加橋のファースト・ソロ・アルバム『パリ 1969』は、前項(第7回)で触れたように、当時としてはまだ数少なかった海外録音(プロデュースは川添象郎)を行い、加橋自身や、かまやつひろし、村井邦彦らもソングライティングに関わって作り上げた、気品と冒険に満ちた、日本版バロック/オーケストラル・ポップな、傑出したアルバムだった(編曲は後年、映画音楽でも活躍したジャン=クロード・プチ)。

 69年12月といえば、まさに、渋谷・東横劇場においての日本版『ヘアー』公演期間中の出来事だ。堀内をはじめとする『ヘアー』トライブたちが、リリース直後からこのアルバムを耳にしていたとしても、おかしくはなかったはずだ。

 実際、69年11月に加橋をはじめ、堀内、大野を含むトライブたちがNETテレビ『題名のない音楽会』に出演した際には、この『パリ1969』の冒頭を飾ることになる「花の世界」(作詞は加橋自身、作曲は村井邦彦)という曲を、加橋はトライブたちを前に独唱し、発売に先駆けていち早く披露している(翌70年1月にはソロ・デビュー曲としてシングル・カット)。

 先の項でも触れたように、堀内も日高も、ほぼ同年輩ながら、GSのトップ・スターであったタイガース(沢田研二が48年生まれ、加橋かつみは47年生まれ)に対しては、あこがれのような感情も持っていたとされる。さらに、彼らに曲を提供していた村井邦彦のメロディ・センスに対しても、敬意を抱いていたことはたしかだった。

 事実、晩年の取材時にも、かつみとはヘアーがきっかけで親しくなって・・・、という言葉に続けて「自分にとってはひとつのあこがれでもあったし」という具合に、堀内は語り残していた(2013年、筆者取材時の発言)

 『ヘアー』を通じて身近な存在となった、加橋から受けた刺激。ひょっとするとそれは、堀内に限らず、ガロの3人にとって、特に意識せずとも、何かしらの形でそのクリエイティヴな面に、影響を与えていたのではないのだろうか?

 実際にインスパイアがあったかどうかは別としても、『パリ 1969』とガロの初期の作品とには、同質の空気があるように、筆者は感じている。

 そして、ガロと加橋との関係は、その後、やはりパリ録音となる加橋の72年発売のサード・アルバム『パリⅡ』(レコーディングは71年)に、堀内と日高が揃って楽曲提供をするところにまで発展して行く。

 この作品における堀内・日高の楽曲についての詳細は、「GARO Session Works〔2〕」も併読されたい。

 ところで蛇足ながら、この加橋の作品のパリ録音、というキーワードに関連して、個人的に興味深いことがひとつある。

 じつは先に挙げた「ラレーニア」という曲の着想について、ドノヴァン自身は、ジャック・ブレルという自作自演歌手などの影響があったと後年、語っているという。

 このジャック・ブレルは、ベルギーに生まれ、その後パリに移り住み、フランスで活躍した人。

 さらにブレルといえば、60年代当時、まさにスコット・ウォーカーが敬愛し、自身、幾たびもその曲を英訳しカヴァーした(「ジャッキー」など)ことで、日本では特に知られた人物でもあった。

 ドノヴァンの「ラレーニア」。スコット・ウォーカー。加橋かつみ。この3つが“パリ”、というキーワードで繋がっていること。

 それは単なる偶然の一致かもしれないし、ましてや当時、堀内がそんなことまで考えて三者を聴いていたとは考えにくいだろうが、それでも、このことは個人的にはちょっと、気になる点となっている。

バッファロー・スプリングフィールドと東海林修、ミクロス・ローザ

 冒頭から、少し推測も多く絡んでしまったが、ここからはより、堀内からはっきりと聞いた事実に沿って。

 堀内はまた、70年前後の時期、バッファロー・スプリングフィールドのレコードも自室のターンテーブルにしばしば載せていたという。

 言うまでもなく、ニール・ヤングが在籍していたことで知られるこのバンドは、そのことからCSN&Yの母体、とも捉えられることもある存在だ。

 じつは、CSN&Y界隈のアーティストのレコード盤で堀内が最初に耳にしたというのは、CS&Nそのものではなく、このバッファロー・スプリングフィールドの解散後、CSN&Yとの間の時期に発表された、ニール・ヤングのソロ・デビュー作『ニール・ヤング』(1969年)だった。

 それは前項で触れたように『ヘアー』公演中のオフ日に堀内が小坂忠の部屋を訪ねた際のことで、小坂はまず、堀内にこのヤングのファースト・ソロ・アルバムから「ローナー」という曲を聴かせ、次いで、CS&Nのアルバムを聴かせたというのである。

 その時、すぐには魅力の判らなかったCS&Nに比べ、堀内は「ローナー」の方は即、気に入ったのだという。
 
 堀内がその後、バッファローの方をいつ、どのように耳にしたのかについては、よくわかっていないが、とにかく、彼のCS&N一派に対する門戸を開くことになったのは、ヤングのソロだったわけである。

 とはいえ、堀内自身はCSN&Yの中で特に誰派、というわけでもなかったようであり、デヴィッド・クロスビー(特に1969年のソロ作からの影響は、堀内の諸作に色濃く見てとれる)からも、グラハム・ナッシュからも、もちろんスティーヴン・スティルスからも、それぞれに影響を受けたことを筆者との取材時に語っていた。

 だが、ファースト・インプレッションの流れからは、ある種ヤングの作風に対する親しみというのも、1970年当時の堀内の中には、芽生えていたのかもしれない。バッファローの曲で堀内が特に好んでいたというのも、彼らのセカンド・アルバム『アゲイン』(1967年)に収められていた、まさにヤング作の「エクスペクティング・トゥ・フライ」だったのだそうだ。

 ジャック・ニッチェによる、荘厳な響きのストリングス・アレンジをまとったこの曲もまた、今日の視点で見れば、バロック/オーケストラル・ポップ的な曲のひとつだとも言えそうだが、じつはこの曲から得たインスピレーションが、のちに「二人の世界」という、ガロ初のオリジナル曲(ファースト・アルバム『GARO』に収録)を産むことになったのだと、後年、堀内自身、それにこの曲で作詞を手掛けた大野も証言している。

 ガロのファーストに収められたこの「二人の世界」という曲は、レコーディングに際し、やはり重厚な弦編曲が施された。手掛けたのは、当時のトップ・アレンジャーのひとりであり、村井邦彦も師と仰いだという、名匠・東海林修である。

 東海林によるそのアレンジの仕上がりは、バッファローにおけるジャック・ニッチェのそれにも劣らぬほどの、まさに壮大な世界観を持つものだ。これもまた、和製バロック/オーケストラル・ポップの傑作とも呼べるような、じつに素晴らしいものだった。

 事実、当時、アルバム『GARO』のストリングス・パートをレコーディング中のスタジオに赴いた際、まさにその場で初めて同曲における東海林のアレンジに接したという堀内本人も、その紡ぎ出された弦楽器の調べの見事さには圧倒され、いたく感動したのだという。

 東海林はこの曲のほかに、同アルバムで、堀内の「水色の世界」、日高の「地球はメリー・ゴーランド」にも、同様の深遠な弦のアレンジを提供している。

  もともと堀内は少年期、『ベン・ハー』(1959年)などの映画音楽を手掛けたハンガリー出身の作曲家、ミクロス・ローザのサウンドに魅せられていたのだ、ということをしばしば語っていた。興味深いことに、これは同じく少年時代の日高も同様だったという。

 そんなことを考えれば、そうした下地から、堀内がこうしてオーケストレーションを施した楽曲、あるいは荘厳な世界観がエッセンスとして感じられる曲を好んだのは、当然だったとも言えるのかもしれない。

 堀内の作品には(同じミクロス・ローザ好きの日高にもその傾向は少なからずあったが)その後もキャリアを通じ、オーケストレーションを意識した作風が目立つ感がある。

 実際、堀内は晩年にも、自作の新曲レコーディングで、できれば生の弦アレンジを入れたいのだ、という心情を語り、“いま東海林さんに頼むことは難しいものだろうか?”、というようなことを、半ば本気めいた口調で、筆者に対し話していたことがあった。

  ガロ以降の活動の中で、日高とはまた異なり、ポップでありながらも、どちらかといえば内省的でファンタジックな、時にシンフォニックな世界観を得意として行った感のある堀内。

 その彼の心のどこかに、この時期耳にしていた、たとえばここまでに挙げたような音楽(ドノヴァン、ウォーカーズ、バッファローなど)のエッセンスが源泉となって行った可能性は、少なからずあるのでは、と思う。

明るく抜けるようなポコ、シャ・ナ・ナの音楽

 ここからは、もう少し堀内の好みの別な面を見て行こう。

 シンフォニックで壮大な曲を好んだというその一方で、堀内はこの頃、〈ポコ(Poco)〉のような抜けの良い、軽快で歯切れの良いカントリー・ロック・サウンドもかなり好んでいたという。

  第9回で触れた、飯倉の飲食店《ジョワ》でのデュオ・ライヴ時代にはすでに堀内、日高のレパートリーにも取り入れられていたという、この〈ポコ〉は、CS&N、ニール・ヤング同様にバッファロー・スプリングフィールドに在籍していたリッチー・フューレイジム・メッシーナ(のちにロギンス&メッシーナへ)らが同時期に結成したバンドであり、やはりハーモニーを軸とする音作りという共通項があった。
 
 もちろん、ポコにも様々な曲があり、ジョワ時代に堀内がカヴァーしていたという「初めての恋(First Love)」のように、しっとりと聴かせる、切々としたセンチメンタルなバラードも大きな魅力だった(この曲は当時、大野真澄のお気に入りでもあったという)。

 しかし一方で、ポコといえば、そのパブリック・イメージとして、CS&Nとはまた異なる、抜けるような軽快さ、明快なポップさを持つカントリー・ロックがすぐに思い浮かぶという人も多いだろう。

 そうしたポコのポップなサウンド、たとえばのちにガロの初期ステージでも取り上げた「それではさようなら(Consequently, So Long)」のような、溌剌としたカントリー・ロック・フレイヴァーの影響が、ガロ結成直後の頃に書かれた「風にのって」(録音は遅れに遅れて74年、同年発表のガロの通算6枚目のアルバム『サーカス』に収録)という自身のオリジナル曲に結実したのだということも、堀内は後年、明かしている。

 また、堀内は、映画『ウッドストック』で見たというロックンロール・リヴァイヴァル・グループ〈シャ・ナ・ナ〉の、その弾けまくったパフォーマンスにも、随分としびれた様子であったことも語っていたこともあった。
 
 「シャ・ナ・ナなんかも大好きなんですよ。(ウッドストックで彼らが演奏した)「アット・ザ・ホップ」!面白かったですよねえ」(堀内。2013年、筆者取材時の発言)

  このシャ・ナ・ナや、それ以前に堀内が兄・姉の影響から馴染んでいたというニール・セダカ、ポール・アンカなどのアメリカン・ポップス・テイストというのは、堀内が特に好んだエッセンスのひとつだったようだ。

  そうしたアメリカン・ポップスへの、あっけらかんとした直接的な“オマージュ”を、堀内はガロ中期以降、たとえば「踊り人形」(73年『GARO4』収録)、「大都会の羊飼い」(75年『吟遊詩人』)、あるいは、かまやつひろしに提供した「何とかかんとか」(75年『あゝ、我が良き友よ』)といった楽曲において、幾たびも表わしてもいた。

 そしてさらに、こうした好みに裏打ちされたであろう、“親しみやすいポップス・テイスト”というのも、彼の得意とする作風のひとつとして、以降のソロ時代まで引き継がれてゆくことにもなったように窺える。

日本的風景への憧憬

  ガロ結成前後の頃、堀内の琴線に触れたのは洋楽ばかりでもなかった、ということも触れておくべきかもしれない。
 
 たとえば、大野真澄や小坂忠らとの交流を通じてその存在を知ったであろう、はっぴいえんどの存在も、初期の堀内の創作には刺激となっていたということを、彼は後年のインタビューにて明かしていた(『失速』)。

 はっぴいえんどの母体となったのは、小坂がヴォーカリストとして在籍していた〈エイプリル・フール〉である。その解散後に、メンバーであったベーシストの細野晴臣、ドラマーの松本隆のふたりを中心に、ギタリストの鈴木茂、ヴォーカル、ギターの大滝詠一の4人で新たに結成されたのが、はっぴいえんどだった。

 まだ日本語詞でのロックの行き先が決まっていなかった時代、その新しい可能性を示したとされる、松本隆の言葉のセンスは、同じ頃に日本語詞のオリジナルに手を染めだしていた堀内にとってやはり気になる存在だったようであり、あるいは、鈴木茂のギター・センスにも、ずいぶんと触発されるところがあったようだ。

 後年、〈マーク from GARO〉名義による、堀内生前最後のアルバム『時の魔法』(2013年)では、まさにその鈴木がゲストとして招かれ、エレクトリック・ソロを披露したこともあったが、これは堀内自身曰く、自らの熱心な希望によるものだったそうである。

 ただ堀内は『失速』でのインタビュー中で松本の“ですます調”の歌詞について触れ、ロックのメロディーに日本語を乗せるという点で斬新さを感じ、刺激を受けた、とまで語っているのだが、実際に自作中で直截にそれを模倣することは、なかった。

 そこには、やはり譲れない、同世代の創作者としての矜持、というものもあったのかもしれない。

 もうひとつ、同世代の国内ミュージシャンからは、こんな影響もあった。

 ガロを結成した直後の頃、堀内は大野真澄と連れ立って、大野の古巣であった東京キッド・ブラザースの舞台『帰ってきた黄金バット』を見に行ったことがあったらしい(1971年1月、後楽園ホール)。

 そして、この舞台の劇中歌として当日歌われた、下田逸郎の作になる「花雪風」という曲に、心を揺さぶられるところがあったのだ、ということを、堀内は筆者とのインタビュー時、語っていたことがある。下田はこの頃、キッドの設立当時から音楽を手掛けていた、同劇団関係の主要人物であった。

 同インタビューの中で、堀内は自身の楽曲には洋楽だけでなく、和の要素も入っているのだ、ということを自負するようにも語っていた。

 「ガロのファーストでも日本音階はたくさん出てくるんですよ。「二人の世界」なんか、わかりやすいでしょう?琴のメロディーみたいなね」(堀内。2013年、筆者取材時の発言)

 キッドの「花雪風」(下田自身の歌唱としては、77年の『LOVE SONG IN THE NIGHT』収録のライヴ録音がある)という曲もまた、そのタイトルの通り、日本的情緒を強烈に感じさせる曲であった。
 
 CS&Nやドノヴァンのような洋楽のエッセンスと、日本人である自分の表現、自分の中にある原風景との対峙。

 はっぴいえんど、下田のような、同期の国内ミュージシャンにも刺激されながら――、ひょっとしたら、堀内はそんなことも心に描いていたのかもしれない。


※以下第11回へ続く

(文中敬称略)

Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus

主要参考文献:※最終回文末に記載。

主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など

(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)

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