分かる〜ではなくて、そうなんだ〜でいいと思う。
BTSがホワイトハウスでアメリカ大統領とアジアンヘイトについて話し合うということで、私もこの機会にワーキングホリデーで体験したアジアンヘイトや身近に起こった差別、そして自分が持っていたバイアス、多様性について、書いてみようと思います。
私がワーキングホリデーで過ごしたオーストラリアは移民が多い国であり、特に私の住んだメルボルンという都市は多国籍都市だと聞いていました。
それでもやはり、アジアンヘイトを感じる出来事はありました。街の中心部から電車で一時間以上離れた町まで実習のボランティアに友人と向かっていた時、道ですれ違う相手にいきなり怒鳴られたのです。私は彼女が何に怒ったのか分からず理解できないでいると、その英語を聞き取れてしまった隣にいた友人が、「私たちがアジア人だから怒鳴ってたんだよ。」と教えてくれました。
その状況を理解して湧いてきた感情は、ただ、悲しいというものでした。自分が悪いわけではないと言いきかせても、そう扱われた事実は消えないのです。決して変えることのできない、アジア人だという生まれ持ったものが理由で怒鳴られてしまうということは、これまでに感じたことのない類の悔しさと悲しさを私に覚えさせました。
後日、その話を別の友人に話すと、やっぱり郊外だと差別もあるのかなと言い、ある田舎町でバリスタをしている日本人は、「アジア人が作ったコーヒーは飲みたくないから、他の人が淹れて。」と言われたらしいと教えてくれました。こんなに悲しいことって本当にあるんだ、と衝撃を受けて悔しさと悲しさがまた心に広がっていきました。
コロナウイルスの感染拡大が続くと、アジア人差別は街の中心部でも起こるようになりました。私は実際にそれを受けることはありませんでしたが、知り合いは後ろからモノを投げられ、頭上から飲み物をかけられるという被害に遭いました。
その話を聞いてからは、アジア人であるこの容姿で外出することへの恐怖心が生まれました。人とすれ違う時、背後に足音を感じる時、反射的に緊張するようになりました。たとえ見知らぬ人でも目が合えば微笑み合っていた頃とは対照的に、出来るだけ誰とも目を合わせないように駅まで歩くようになりました。その変化が、とても、とても寂しかった。この街を好きな理由が減ってしまったような気持ちでした。
働いているカフェのスタッフやお客さんはみんな、日本人である私を受け入れてくれていました。だから職場にさえ辿り着けば、もう安心でした。しかし、ある日カフェに営業目的でやってきたオーストラリア人に手指の消毒をお願いすると、「僕は君と違ってアジア人じゃないからウイルスは持ってないけど?」と笑われました。本当にこういう解釈をしている人がいるんだと驚いたことを覚えています。
情報が溢れ過ぎているこの世界でバイアスを持ってしまうことは、とても簡単なことです。過去に出逢った誰かひとりの記憶が、その国や人種に対するイメージを創り上げてしまうこともあります。
私も実際に、過去の経験からある国の人に対するバイアスを持っていました。事前に持ってしまった情報は、良くないイメージを膨らませていました。しかし、オーストラリアでその国の人をはじめ様々な国の人に出逢い、分かったんです。
ひとり、ひとり、だということを。傾向は傾向に過ぎない。いま目の前にいる相手は、人種や出身国、性別などのあらゆるカテゴリーで分けることなど出来ない、ひとりの人だということを。
差別は、あらゆることに対して起こりますよね。「チョコレートドーナツ」という映画を観た時、私はやはり差別に対して悲しさを覚えました。
何故か私はきっとハッピーエンドだろうと思いながらその映画を観ていたんです。人間はそんなに酷くはないはずだと思っていたんです。ハッピーエンドを期待していました。でも、それは悲しい物語でした。結末はあまりに寂しく、行き場のない悔しさを痛いほどに感じました。
きっと、この現実こそ、発信しなければならないメッセージだったんだろうと考えました。ただ、人と人が愛し合って家族になろうとすること。それは、同性愛に対する差別や偏見によって残酷な結末を迎えてしまう。観終えた後、救えたはずの命さえ救えなかった無念さについて、しばらく考えていました。
そんな私もセクシュアリティについてオーストラリアで学んだことがあります。別の記事で一度書きましたが、友人が私に恋人の有無を尋ねるとき、「Do you have a boyfriend or girlfriend?」と聞いてきたのです。
その友人の性別は女性で、彼女にはgirlfriendがいました。そこで私は初めて気付きました。これまで自分が、男性には彼女、女性には彼氏の有無を問うことを当たり前にしていたことに。そしてそれは、これまで出逢った誰かに生きづらさを与えてしまっていたのかもしれないということに。
十代の頃、女の子の友人から付き合っている人が女の子だと電話越しに報告されました。正直私の中に驚きという感情すらあまりなく、そうなんだと思っただけで、彼女に伝えたことばもそのひと言でした。彼女は泣きながら、それだけ?引かないの?と私に問いかけましたが、彼女の交際相手の性別が何であろうと、私にとっては、友人である彼女がひとりの人を好きだということでしかありませんでした。
恥ずかしながら、過去にも一度こういう経験があったのに、私はオーストラリアで出逢った友人に問われてからやっと自身の言動を振り返り、そして変えていこうと思ったのです。
これも以前別の記事で書きましたが、セクシュアリティをはじめ、あらゆることに関する「カミングアウト」という概念がなくなればいいなと思うんです。マイノリティな人だけが偏見を持たれないか不安な気持ちを抱えながら勇気を出して自分のことを話すのではなくて。
青と分類される色の中にもたくさんの青色があるように個人が違うことが当たり前なのであれば、単にカテゴリーに分けられて差別を受けることは不当なことだと感じます。
自分と違う、これまでに出逢ったことがない、そういう人に出逢ったとき、すべてを分からなくてもいいと思う。分かる、なんて無理だから。人付き合いをする中で、合う・合わない、好き・嫌いがあるのは当然のこと。
ただ、知ろうともしないで押さえつけたり跳ね返したりすることは、やはり悲しいことだと思います。たとえ理解できなくても、そうなんだと受け入れてみることで開く扉や広がる世界は、きっとたくさんあります。
とても根強いものだから、ヘイトや差別がなくなることは本当に難しいことです。けれど、アジア出身のアーティストがアメリカの大統領とその問題について話し合いをするようになったということは、紛れもない「変化」です。行動が変化に繋がることの凄さを、今回の発表を聞いて改めて感じました。活躍の場を広げて多くのものを背負っているように思える彼らの健康面のマネジメントだけはどうか事務所にお願いしつつ、純粋に応援したいと思います。
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