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高校生の時の読書感想文出てきたけど既に北澤ゆうほだったから載せておくね


ノルウェイの森の孤独、生と死
 3年G組11番 北澤佑扶
 (と、お直し北澤ゆうほ(26))

 読み終えた時、現実と非現実の狭間をぐるぐると行き来しているような作品だと感じた。ワタナベ、直子、緑。あらすじだけなぞれば私達の周りにいくらでも存在しそうな人物たち。実際ストーリーの中で彼らの言動に感情移入できる場面は何度かあった。しかし垣間見えるのは決してポピュラーとは言い難い情緒の不安定さや死に対するイメージ。今私の生きている世界とはまるでかけ離れたそれらの感覚に、時には嫌悪感すら覚えた。それでも読み進めていくうちに嫌悪より遥かに強く感じたことがある。それは、彼らの持つ経験や感覚のセンセーショナルな部分が自分にとって非現実的なものだとしても、人間として持っている根本的なものは何ひとつ私たちと変わりない現実的なものだということ。読んでいる最中、この二つの側面は何度も私の脳を引っ張り合った。こうして読者側が現実と非現実の狭間を行き来している中、ワタナベや直子たちも生と死の狭間、つまり現実と非現実の狭間を何度も行き来していたのである。

 まず、この作品ではすべての人物がそれぞれの孤独を背負っている。キズキの死以来、曖昧で掴みようのない孤独を背負っている直子。両親の死をうけて、ただ淡々と自身の中に孤独を映す緑。そしてこの二人の間で孤独と共に生きたワタナベ。少しでも輪郭のあるものに惹かれていく「東京」という大都会に生きる若者たちの隠しきれない孤独とは、今も昔も変わってないように思えた。ワタナベは本作終盤こう言う。「僕は今どこにいるのだ?」。この台詞には様々な見解が存在し得るが、私はワタナベが最後の最後に自分を見失い本当の孤独に襲われた事を表現しているように思う。他人にも自分自身にも距離を感じ、自分が今一体どこに"存在"しているのか、それすらもリアルに感じることの出来ない感覚は決して特別なものではない。このある種の浮遊感は孤独から来るものだろう。本物の孤独とは、今自分の側に誰かがいようとお構いなしに訪れる。自分さえも自分に寄り添ってくれない時、自分にさえ自分が寄り添ってあげられない時にこそ、人は真に孤独になるのだと私は思う。直子がキズキに囚われている事に勿論気付いていてもそれでも直子を愛してしまうワタナベは、直子にとってのキズキになりたいとキズキの影を追い続け、いつの日か無意識に自分とキズキの影を混ぜ合わせたものを自分として認識していたのではないだろうか。しかし直子の死により、キズキにはなれなかったこと、言い換えればキズキに敵わなかったことを突きつけられ、混ぜ込んだ影からキズキの姿が消える。その時、彼にとって自分という存在が甚だ不確かなものになってしまったのだと思う。この孤独が作品を通して彼が感じてきた"寂しさ""迷い"とは全くの別物であるという事に彼もどこかで気付いたのではないだろうか。そして放った「僕は今どこにいるのだ?」という言葉。私には、自分に寄り添うにも自分を見失ってしまったが故寄り添えずにいる彼の、どうしようもない孤独の叫びに聞こえた。

 次に、生と死についてだ。生と死は今作において最も重要なテーマだと思う。まず言えるのが丁装でも大きなインパクトを残している赤と緑の二色が生と死のメタファーであるということ。赤は血の色、つまり生命力を表す「生」の色で、緑は森の色、つまり直子が自殺をした病院を連想させる「死」の色だ。さて、作中に以下のような緑の台詞がある。「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そんなのひどいと思わない?まるで呪われた人生じゃない、これじゃ」。これは死のメタファーである緑色が生命力に溢れた女性の名前として似つかわしくないという意味の台詞で、今作において緑が「生」を表す人物である事を裏付けた一文だ。それならば遠回りをせずとも最初から生の色である赤をモチーフにした名前にすれば良かったのでは?と疑問を抱くのが自然だが、私は作中のとある一文から、彼女のこの緑という名前にこそ「生と死」というテーマの真意が隠されているのではと考えた。それは今作中にある「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という一文だ。実際書籍でもこの一文のみ太字で印刷されており、この一文を掘り下げてしまいたくなるのは村上春樹の思惑通りといったところだろう。生命力に溢れた緑ですら緑という名前、つまり死と共に生きている。これは「死は生の一部」という言葉を確実に物語っていると思う。
 では死が生の一部として存在しているというのは具体的にどういった意味なのだろうか。「人間いつ死ぬか分からない」というような希薄な意味でない事は確かだ。そもそも今作を読むまで私は、今生きている私たちは「生」の真っ只中にいて、「生」を生き抜いた末に「死」があるものだと考えていた。しかしワタナベや直子や緑を見ているうちに、そうは考えられなくなっていた。生と死は相対的な存在なのではなく、どちらも人間の中に常に存在し続けているのではないか。言ってしまえば私たち人間は生まれたその瞬間から生き続けると同時に死に続けている。死は生の終着点ではないのだ。そんな事を彼等から訴えられているような気がした。
 そしてこの考えを元にすれば、作中終盤にある「僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた」というワタナベの言葉にも説明がつく。「どこでもない場所の真ん中」というのは極めて曖昧な表現であるが、生と死の狭間のことだろう。前述の通り直子の死を受けたワタナベは自分を見失い、生きているのか死んでいるのか分からないような状態だった。つまり生と死の狭間にいた。とはいえ不確かな自分のままでは自らの足で「生」の側へ歩む事もできない。従ってワタナベは緑がもう一度自分を「生」の側へ引き戻してくれることを望み、生の象徴である緑の名前を生と死の狭間から呼び続ける。こうして生でも死でもない他人からも自分からもかけ離れた孤独な場所にワタナベは立って物語は終わるのである。

 「ノルウェイの森」はとても気味が悪い作品であるように感じた。突然訪れる友人の自殺、森の奥に潜む精神医療施設、どれも描かれ方がとても非現実的で、まるでファンタジーを読んでいるような気分になる瞬間もあった。しかし、そんな非現実的な世界に住む人物全員が、私達と同じ"何か"を持っている。その"何か"が作中で表現される度、私の生身の部分に冷たい手でひんやりと触られる感覚が襲ってくるのだ。その度現実に引き戻され、また読み進めていくといつの間にか非現実的な空間に身を委ねていしまっている。
 人間はいつだっていつだって何かを装っている。悲しみや嫌悪の感情を隠したり、いい人間を演じたりする。しかし、孤独や自分の恐れていたものを目の前にした時の人の心というのはとても脆いものだ。様々な色を塗りたくって隠した心でも、あっという間に全ての装いが剥がされ、生身の部分が曝け出されてしまう。そんな人間の生々しい部分が鮮血や新緑のように鮮明に描かれていた。

 私は今生きている。ただ生きている。「死」と「生」を比べて「生」を選び抜いたわけではなく、生きる以外の選択肢がそもそも無いかのようにただ毎日を泳いでいる。もしかしたらラストシーンのワタナベと同じように、自分の中に存在する生と死のどちらにもつけずただ浮遊しているだけなのかもしれないと考えるとゾッとする。私は今どこにいるのだろう。その答えを探すだけでも、「生」を選ぶ理由として充分すぎるものかもしれない。
 今作で大きく取り上げられているのはワタナベ、直子、緑の恋愛模様であったが、上下巻を読み終えた後に私の心にずっしりとのしかかったのは「恋愛とは」という疑問よりも「生きるとは、死ぬとは」という疑問であった。本作は「愛」というテーマを「生と死」を使い表現しているのではなく、「生と死」というテーマを「愛」というストーリーで包み私たちに問いかけているのではないだろうか。たくさんの疑問を心に重く残していく作品だった。

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