宮沢賢治と酔鯨と

わたしは日本酒が好きだ。特段味にうるさいとか、酒米にこだわりがあるとか、蔵元にくわしいとかというわけでは全くないが、ほぼ毎晩たしなんでいる。なので、クラス初めの自己紹介では(わたしは日本語教師をしている)、必ず日本酒が好きだというフレーズを入れるようにしていて、おかげで名前を覚えてもらえなくても酒好き教師として認識されている。

先日、そんなクラスの一人に日本酒好きになったきっかけを聞かれて、古い記憶をたどってみた。

ン十年前の学生時代にさかのぼる。京都先斗町の三条通りを少し下がったところ。古びた建物の人一人がやっと通れるぐらいの狭い階段を上がると、右側にその店はあった。カウンター5、6席、小さなテーブル席が4席ほどのこじんまりした店内の壁には、昭和の香り漂うレトロなポスターやどこかの小劇団の公演のお知らせなどが貼られていた。そしてそのわきのテーブルや本棚に置かれていたのが宮沢賢治の小説、『銀河鉄道の夜』。たいして知りもしないのに、店のアーティスティックな雰囲気に刺激されて、友人といっしょにページをめくった。

そのときに飲んだのがタイトルにある高知の銘酒「酔鯨」だ。今でこそご当地でなくても気軽に買えるようになったが、その当時京都で飲めるのは珍しかったのではないかな。梯子酒の3軒目ぐらいだったにもかかわらず、するするとのどを滑り落ちていく感覚。ほのかに鼻に抜けるフルーティーな吟醸香がなんとも言えずおいしく感じた。

当時は今のようにお洒落な日本酒バーなどもなく、どちらかというとまだまだおじさんの飲み物だったような気がする。それまでにわたしが飲んだことがある日本酒は、いわゆる端麗辛口のもの。カーっと鼻に抜ける刺激も嫌いではなかったが、そこまで心ときめかされるものではなかったのだ。

酔鯨のあまりのおいしさにおかわりをし、もうそのときには宮沢賢治はどこかへ行ってしまっていたのだけれど、わたしの中にはこの二つがセットになって記憶されている。星めぐりの歌にはクジラは出てこないのだけれど。

宮沢賢治と酔鯨と。わたしが日本酒好きになったきっかけである。


*ちなみにこのお店は数年前に移転されて、現在はありません。


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