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落し穴のなかの若者たち —— #東京夜光 『fragment』の感想文 #フラグメント


東京夜光の舞台『fragment』を観ました。劇評と呼べるものでもないかもわかりませんが、劇を観ながら想い浮かべた言葉であるとか、観終えたあとに考えた事柄であるとかを記録しておこうと思います。




「回想」、その特性について


「今、この感情は今にしかない」


そのようなニュアンスのセリフがあったはずです。そのセリフの通りだと思います。異論はありません。ですが、なにかしらを付け加えてみるとすれば、「回想」にもそれなりの意味があります。

私たちはどうして、たびたび過去を振り返るのでしょうか。それは、たぶん、過去を通してでしか、現在を眼差すことができず、もっと言えば、未来を見通すことができないからでしょう。

そのような視座に基づいてみれば、私たちは老いているのではなくて、過去を蓄積している——のではないでしょうか。

身体に刻みこまれた皺や、負っている傷や病は、過去の蓄積であり、その蓄積によって私たちは現在を眼差すのです。すなわち、過去を顧みるということは自らの「眼」をメタに捉え、自分がどのような因果から、現在をそのように眼差すのかを分析するための所為であると考えることができます。

以上の理由から、「回想」には相応の意味があり、意味があるからには価値があるのだと断定することができます。

もちろん、記憶はたえず改変されていくことでしょう。自分にとって都合の好い/悪いことしか憶えていない、ということもあるでしょう。そのときどきによって、思いだせることと思いだせないことの差異もあるでしょう。

つまり「回想」は、過去の振り返りでありながら、そのときかぎりの「一回性」を有していると考えることができます。


「今、この感情は今にしかない」

これは「回想」についても当てはまることなのです。



前置きが長くなりましたが、これから僕の「回想」を始めていきたいと思います。それは、劇中に登場する「戦時中に書かれたとされる少女の日記」に呼応するような構造になっていることでしょう。

少女は「回想」をしながら、過去に遡って日記をしたためました。自分の目の前で起こった出来事、体験した出来事を宝箱にしまいこむように。僕もそんなふうにして文章を書いてみようと思います。

劇中では、創作者たちが「少女の日記」に触発されて動画制作を始めます。シェルターのなかで交わされるかれらの会話は「創作論」でありながら「人生論」でもありました。そこには「創作」することは「人生」であり、「人生」とは「創作」であるというメッセージが確かに込められていました。

僕もまた、創作者のはしくれとして、「少女の日記」に感化され、「創作論」めいた「人生論」を始めようとしているのだと思います。



戦争のできない国


観ているあいだに何度も頭をよぎったのが「日本は戦争のできない国になってしまった」という言葉。

これは、べつに劇中で発せられたセリフではありません。僕はこの言葉を別の場所で見聞きしたのです。この言葉は、新型コロナウイルスへの対応が後手にまわっている様子を受けて、誰かが批評的に述べていたものだと記憶しています。


対応が後手にまわるのはなにもこのときだけではありません。首相も違えば、政権を担う党も違いますが、福島第一原発事故発生時もまた、対応が後手にまわっていたのは同じでした。


このような「緊急事態」への対応、ひとつひとつを見ていても、「日本が戦争のできない国になってしまった」のは明白なことであるように感じられます。

しかし、同時に思うのです。「日本は簡単に戦争を始めてしまう」だろうと。

一見矛盾しているかのようですが、「戦争のできない国」が「簡単に戦争を始めてしまう」ことはおおいにあり得るでしょう。実際、現在の日本は、自国を防衛するために「簡単に戦争を始めてしまう」ことのできる状況をつくり出しているかのように察せられます。


日本は唯一の被爆国として、核廃絶のメッセージを国際社会に向けて発信し、平和のための対話を継続していく——平和のための対話の場に兵器は必要でしょうか。

必要ある、と言う人もいます。僕にもその言い分を理解することができます。ですが、そのように主張する人たちの多くは、戦争が始まってしまったときのことを十分に想定できていないのではないか、と思うことがあります。


そしてかれらは、そのような状況に際して以下のように述べるでしょう。

「戦争が起きてしまったことは遺憾であり、わが国にとっても想定外の事態だった。しかし、すでに起きてしまったものは起きてしまったものとして、しかるべく対処していかなければならない」

あらゆる対応は後手にまわり、「戦争のできない国」による戦争はこのようにして始まるかもしれません。



意志決定が後手にまわってしまう組織の誘因


私たち(のリーダー)の意志決定がどうして後手にまわってしまいやすいのか、ということについて考えていきたいと思います。



福島第一原発事故について描くドラマ『THE DAYS』では、意志決定が後手にまわってしまう組織の誘因についてがありありと、リアルに描かれています。

組織のなかにいる人間は——組織の規律を乱してしまうと組織から排除されてしまうので——なるたけ自分が責任を負わないようなプロセスを踏んで意志決定をしていきます。


つまり、意志決定をしたのは集団(組織)である、という構図がとられるため、個々人の責任が見えづらくなる——これは旧日本軍、また、さまざまな不正がはびこる悪徳企業による『失敗の本質』でもあります。

ボトムアップと呼ばれるような意志決定のシステムにはこのような落し穴があることを忘れてはいけません。

そもそも、正しいボトムアップとはこうした落し穴のないシステムのことを言うのだと思います。集団で合意形成はするが、責任の所在ははっきりとしている——


私たちが、もっと切迫した状況に置かれたとき——福島第一原発事故に切迫性がなかったと言っているわけではありません。あの事故に関していえば、その切迫性が国民にきちんと伝えられていなかったことが『THE DAYS』を見るとよくわかります。——私たちは、強権的なリーダー(独裁者のような存在)を待望するのでしょう。



命の重み


シェルターに身を潜めていた若者たちのスマートフォンが一斉に鳴りだすシーンがありました(その様子は非常事態に託けた異常事態の始まりという感じで寒気がした。「テクノロジー、エグっ」というセリフがその感覚を象徴してくれていた)。

発信元は行政、自治体からでした。職員は真意のまるで解せない口調で、

「戦争がもう始まってしまったので、「お仕事」を依頼したい。そこ(シェルター)から出てきてわれわれに合流してほしい」

と告げます。

 

電話の声が言う「お仕事」とは何であるかを想像するのは難しいことではありません。シェルターの若者たちもその意味するところを即座に理解して「合流」しようとします。すなわち、大きな流れに合わさって戦争に加担しようとする者がマジョリティになるのです。

先刻まで「戦争反対」をコンセプトにしたショートムービーを制作していた若者たちが。「ストップ・ウォー」とカメラに向けて呼び掛けていた若者たちが。いよいよ現実的に戦争のさなかにいることを自覚した瞬間に戦争に加担し始めるのです。


(戦争反対という)思想よりも生き抜くことを重視する——死んだら終わりだ——生きるためにやむなく戦争に加担するのだ——という議論、説得のための言葉の数々が交わされるそのシーンを観ていてとても胸が痛みました。

もし自分があの場にいたとしたら、どのような立場をとり、そこからどのような言葉を選びとり、どのような発言をしているだろう、と考えると、ずたずたに切り裂かれるような思いになって深く傷つきました。


たぶん、思想に反してまで生きようとするときに、僕たちが口にする「思想」というのは単なる戯言に過ぎないのでしょう。しかし、命の重さというのは、ほかのなににもかえ難いものです。

しかしながら、命に「重み」を授けているのは揺るがない思想——なのではないでしょうか。



戯言ではない思想


組織のなかにいる人間は――組織の規律を乱してしまうと組織から排除されてしまうので――なるたけ自分が責任を負わないようなプロセスを踏んで意志決定をしていきます。


人間が集団で意思を形成し、決定しようとするとき、和を乱さずに、いかに同調を示しながら、自分(個人)の意志を集団の意志に反映させていくか、ということに、僕も含めた若い世代は長けていると思うことがあります。

このような同調をベースにした集団での意志決定のプロセスは集団内の和を乱しこそしないにせよ、ときに驚くべきような、残酷な意志決定をし、自ら破滅へと向かおうとしている――かのようなことが往々にしてあると思うのです。


人間は、社会的な生きものであり、群れからはぐれた孤独な人間は、生存確率がぐんと落ちこむといわれます。同調を示し、承認を欲するというような、群れからはぐれものにされないように生きる術は遠い祖先から脈々と受け継がれている本能であるともいえます。

本能に抗おうとするとき、人は強い痛みを覚えます。

和を乱さずに、いかに同調を示しながら、自分(個人)の意志を集団の意志に反映させていく、その一見器用にも思えるやり口には思わぬ落し穴があるのだということに、僕はこの劇を観てあらためて気づいたのです。

それは、自分(個人)の意志を集団の意志に反映させていく以上に、集団の意志が個人の意志を侵食してしまっているということです。

大きな流れに巻きこまれ、間違ったことに加担しないためには確乎とした思想が必須です。戯言ではない思想。そのようなものが、私たちの命をより「重たい」ものにしていくはずです。



最後にはなりますが、東京夜光、出演者、スタッフの皆さま、良い舞台を、ありがとうございました。上演台本が手元にはないため、劇中のセリフについては、記憶の限り書き起こしを試みました。内容の曲解を招くような問題ある記憶違いがあった場合はご指摘ください。


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今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。