名悪役という楽曲とフレデリックのライブの在り方について
フレデリックの楽曲、名悪役。アンコールを演奏し「遊びきったので帰宅します」と告げ退場していくメンバー、エンドロールが流れここでこれで公演が終わると殆どの観客は思っていただろう。しかし、その予想を裏切る形でメンバーが再登場し「思い出にされるくらいなら二度とあなたに歌わないよ」という歌いだしであるこの曲を客席に投げつけた。これがこの楽曲の初披露となった。
本編最後でコロナ禍におけるフレデリックなりの音楽に対する向き合い方を歌った「されどBGM」、アンコールではアオアシとのタイアップの「サーチライトランナー」と毎度おなじみキラーチューン「オドループ」を演奏し、円満に向かっていた結末を敢えて「壊す」形で武道館は幕を閉じた。
フレデリックというバンドをそれなりに追う中で、このバンドの主役はあくまでも楽曲であることが伝わってくる。照明、バックモニターの映像、煙や炎、ライブ中で登場する演出は全て楽曲を彩る舞台装置として機能している。それは演者も例外ではない。
夏フェスの出番直後、パブサをすると「踊れて楽しかった」「一体感が気持ち良かった」という感想で溢れかえっている。代々木公演でも後ろから見ていると楽しそうに体を動かしている人が大勢で、そうでない人が目立ってしまう程だった。フレデリックは「踊らせる」ということに注力をしているバンドであるのでそれは当たり前である。
断じてそれが悪いと言いたいわけではない。ただ、私は今までそういう楽しみ方はあまりしてこなかったたちだった。
演者はこの名悪役を「フレデリックの第三楽章」「新しいところに連れて行ってくれる」と形容している。
実際この曲が収録されているアルバム、フレデリズム3にはフレデリックらしい楽曲はもちろん、パブリックイメージとは離れた楽曲もいくつかある。もともとジャンルレスなバンドではあったが、今まで以上に掴みようのないバンドになっていることを感じ取っている。
オドループという一種の呪い、それをどう払拭できるか本人らはそんなに望んでないのかもしれないが少なくとも私は楽しみにしている。
先日、Base Ball Bearが主催でフレデリックがゲストの対バンライブに足を運んだ。
ライブ常連の踊れる曲で構成されたセットリスト、MCで「残り3曲」「あと2曲」「次で最後の曲です」とわざわざカウントダウンするボーカル。オドループで締めっぽい雰囲気だけど最後に何をやるのかと頭の中で疑問符が浮かんだ私を前にしてボーカルギターの三原健司はこう告げた。
「フェスだったらこれ先輩(ベボベ)に繋げていきたいんですけど、対バンなのでここでは終わりません。歌詞を届ける曲をやります。それでは聴いてください、名悪役」
かなり穿った見方であるが、私はこの人に対して「楽しそうな曲を怖そう歌う」「ステージで振る舞う姿が苦しそう」という感想を抱いている。そしてその度合いはライブに対する熱量に比例するのではないかと考えている。(厳密に言うとこれら表現は間違っていて、この話を真面目にしようとするともう1記事書そうなのでここではこれ以上触れません。)このライブ中はそれをあまりそれを感じなくて少し安心してたけど、最後の曲でそれは覆った。それだけで彼がこの曲に掛けている想いが伺えた。
目立つ位置にいたので今まではそれっぽい動きをするように努めていたけど、この曲は手すら挙げる気にならなかった。ステージに向かって伸びる手に鬱陶しさすら感じた。それだけ衝撃を受けた、何度も聴いた曲はずなのに。
この曲の主役の語られることのない悪者と楽曲の舞台装置と化してる演者が重なって見える。どちらもスポットライトが自分に当たらないことを自覚しつつ誰か、もしくは何かの為に「演じる」ことをしている人間。「言葉を届ける」と言い放ちこれを歌うということは本人も分かっているのではなかろうか。これは「気付いてくれる人が1人でもいたら嬉しい」という話ではなく「誰にも気付かれない楽しみを隠しておく」という類のことだと私は勝手に思っている。
ここ最近のゲストとして呼ばれた対バンの最後には名悪役がきていることが多い。アウェーの中、フレデリックは踊るだけではないということを見せつけてホストへとバトンを渡す。わざと空気感を「壊した」中後攻のバンドが何を見せてくれるのか、セトリを作っている三原健司は楽しみにしているのが目に見て分かってしまった。
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