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東村山ふるさと歴史館(2)

所在地:東京都東村山市諏訪町1−6−3
アクセス:東村山駅西口より徒歩8分
訪問日:2024年1月5日

民俗編

雑木林と暮らし。

筆者撮影

『武蔵野の風景として、雑木林は広く親しまれてきました。その雑木林を、東村山ではヤマと呼んでいます。しかし高さのある山のことではなく、平らなところに点在する”平地林”のことを、指しているのです。このヤマの多くは、近世における新田開発とともに、人工的につくられたものです。なぜ必要だったのでしょう、どのように利用されてきたのでしょう』

なぜ人工的な林が必要だったのでしょう?
調べてみました。

関東ローム層の表層は火山灰土で覆われ、有機質に乏しい地力の低い土壌で、古来より畑作には向きませんでした。
江戸時代に入ると人口が増え、新田開発(新田と言っても、田んぼではなく畑)が喫緊な問題になります。
多量の有機質肥料を畑地に投入するためには落ち葉が必要です。
そこで人工的な林、”平地林”が作られるようになりました。
「ヤマ」は「山」ではなく、ヤ=大きい、マ=恵み という意味なのだそうです。

一反の畑に、1トンの堆肥が必要ですが、一反の平地林から採れる落ち葉はおよそ450kg。
つまり畑の2倍以上の平地林が必要な計算になります。
平地林を維持・管理するために、「萌芽栽培」という手段が使われました。
クヌギやコナラは、幹を切ると、切り株から多くの孫生え(萌芽)が出て、数年で成長します。どんぐりなどの実から発芽するのに比較すると、格段に早く森林が回復します。
こうした森林更新を「萌芽更新」と言います。

他にも、
・落ち葉は甘藷の苗床の醸熱材になる
・幹や枝が燃料や木材になる。
・風・寒さ・暑さを防ぐ。
・山菜やきのこの採取場になる。
・四季の彩りを楽しめる。
といったメリットがあります。

畑作農村では、分家を出すときに、畑と平地林をセットにする慣行が見られるほど、平地林は必要不可欠だったのです。


しかし第二次世界大戦後の高度成長期に化学肥料が登場すると、落ち葉の需要は軽減しました。
燃料革命がおこり、茅葺き屋根はトタンやスレートになりました。
甘藷の栽培面積も減りました。
こうして「ヤマ」は姿を消していっています。

武蔵野台地北部、つまり東村山市あたりでは、まだ落ち葉を使った栽培方法を継続している農家もありますが、固定資産税がのしかかり苦しい状態なのだそうです。

落ち葉を集めるために使われていたカゴは、竹を八本使っているため「八本」と呼ばれています。
熊手で掃き集めた落ち葉を、カゴの上に登って、ぎゅうぎゅうに踏み固めると、50~60kgにもなったそうです。

埼玉県ではこの「落ち葉堆肥農法」が日本農業遺産になっています。
Explaylandさんのnoteから「八本」を利用した「落ち葉掃き」の様子を学ばせて頂きました。

そしてこの「八本」を3つ並べて運べるのが、大八車です。

筆者撮影

ところで、平地林について勉強しているときに、古代、武蔵野では焼畑耕作が行われていたと知りました。
8世紀の武蔵野台地は、一面の草の原で、万葉集にも

武蔵野は月の入るべき山もなし 
草より出でて草にこそ入れ

と詠まれているくらいなんだとか。

「野火止用水」という名前に残っている「野火止」という地名は、焼畑があったからなんですね、考えてみれば当たり前なのに、ぜんぜん気づきませんでした。

野火止用水Map


『はなびや人形店 押絵羽子板製作関連資料』有形民俗文化財 

筆者撮影

押絵羽子板って?

調べてみました。

記録では、羽子板は室町時代まで遡ることができます。
当時の羽子板は、板に直接絵を描いた「描絵羽子板(かきえはごいた)」や、紙を布を貼った「貼絵羽子板」が一般的で、ときに胡粉や金・銀箔を用いた「左義長羽子板」という豪華で華美な羽子板もありました。
江戸時代に綿を布でくるんで厚みを持たせた部分をつくり、組み合わせて立体的な絵を作る「押絵」の技術が発達しました。
つまりひらべったいぬいぐるみね?

『はなびや人形店』では、昭和60年代以降にはほとんど製作されなくなり、押絵羽子板製作関連資料の一部が、東村山ふるさと歴史館へ寄贈されました。

型紙と布地の間に綿を入れコテで糊づけする。
上塗り胡粉で表面を滑らかにした後、面相筆を用いて、目・口・鼻などを描く
押絵の終った各部分を裏側から和紙を用いて、コテで糊づけする。


最後に、東村山市と言えば、志村けんさんの『東村山市音頭』で、全国にその名前が知られるようになったと言っても過言ではないかと思います。

新型コロナウイルス感染症によって亡くなってから1年3ヶ月後に銅像が建てられたのは、ニュースにもなりました。

筆者撮影


<参考資料>
東村山市Webサイト
東村山市史編集委員会『東村山市史』1971年(昭和46年)
犬井正「日本史の中の森林」『森林科学18』1996年
農林水産省Webサイト
https://www.maff.go.jp/j/nousin/kantai/giahs_3_101.html
東京都産業労働局Webサイト
https://www.dento-tokyo.metro.tokyo.lg.jp/items/23.html


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